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味噌落花せ石川数正

落花生に甘い味噌を絡めた料理。子供の頃、おかずなのかお菓子なのかと思いながら、これでご飯を食べた。
生落花生を入手したので自作しつつ、犬のように忠実と言われた三河武士の中にありながら主君、徳川家康の元を去った宿老を妄想した記録。


材料

落花生     正味で100グラム
味噌      50グラム
蜂蜜      50グラム
味醂      20グラム
黒、白摺り胡麻 好きなだけ
油       適量

後に徳川家康となった松平家の御曹司、竹千代は幼少期、駿河の今川義元の庇護下。松平家臣からも同行者があり、家康よりも10歳年上の石川教正もその一人。
酒井忠次と並ぶ宿老として長く松平家(徳川家)を主に内政や外交の面で支え続けた。


味噌、蜂蜜、味醂、白摺り胡麻を混ぜ合わせる。

信長との清州同盟の締結、今川家と交渉して家康の妻子を岡崎へ迎える。
家康の嫡男、信康の後見、信康亡き後は岡崎城代というのが主な功績。
信長亡き後、秀吉と家康が対決した小牧長久手の戦い後、徳川家の使者として秀吉との折衝に当たっている時に、思いもよらない事件。
突如として徳川家から離れて、秀吉の元へ出奔。
それまで、そんな兆候もなかった重臣が突然、主を見限ってライバルの下へ行ってしまった。それも岡崎城代で旗頭と言える存在。徳川家の機密とか軍法が敵方に筒抜けになる恐れ。そのために徳川家はそれまでの軍法を武田流に変更。

油を引いたフライパンで薄皮付きの落花生を炒る。

青天の霹靂とはこのことか。
まったく理由がわからず、そのために昔からあれこれと様々な憶測。
幾つか紹介。
まず秀吉のヘッドハンティング説。
成り上がり者で譜代の家臣を持たない秀吉は優秀な人材とみると、他家の家臣でも直臣になれと声を掛ける。
上杉家の直江兼続、伊達家の片倉小十郎、大友家の立花宗茂等々。
徳川家でも本多忠勝や榊原康政にも色気を見せる。
数正にもそうしたスカウト?

火加減はこの位で10分。

次に徳川家中で主戦派と穏健派の対立があり、居心地が悪くなった説。
酒井忠次や本多忠勝といった武闘派は長久手の戦いで秀吉軍を破ったことから意気軒高。しかし使者として秀吉と会っている数正は、秀吉の勢いや実力を知っていて、いい所で秀吉に臣従した方が賢明という穏健派。
威勢のいい主戦派から見れば、数正は日和ったとか、ことによれば秀吉に内通しているのではないかと見られて、居場所を失った?

或いは数正自身が徳川家に愛想をつかした?
数正は信康の後見人でしたが、信康は切腹。
また数正の家は石川一族の本家筋だったのが、父親の代に傍流扱いに。これは父が三河一向一揆で一揆側に付いたのが原因?或いは本家扱いとなった叔父が家康の従兄弟に当たるから?
ともあれ、そうした不満が積もり積もって出奔?

最近では家康と示し合わせて、秀吉方の内情を探るために裏切ったことにして潜り込んだという説もありますが、穿ち過ぎ?

色が変わってきたら頃合い。


どの説もピンとこない中、もしかしたら原因かと思う話に行き着く。
明治の頃、村岡素一郎という地方官吏が書いた「史疑徳川家康」という本。
隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」の元ネタになった。この題名から察しがつくかもしれませんが、つまり徳川家康は入れ替わっていた?
隆慶一郎の小説では関ヶ原の最中に入れ替わりとなっているのですが、村岡の本ではもっと早い段階で、世良田次郎三郎という願人坊主と徳川家康はすり替わっているという。
村岡は「徳川実記」等の記述からの推論を述べたのですが、何故かこの本は瞬く間に世間から消えて重版もされずに消え去った。ヤバイネタだったので封印された?
異説とか妄想大好きな私の大好物なネタ。これを元に考えると石川数正の出奔の謎も解ける。

調味液投入して絡め合わせる。

桶狭間の後、岡崎城へ入り、自立の道を歩んだ徳川家康ですが、次男の秀康誕生から三男、秀忠が誕生するまでの五年。この間に何等かの理由で死去。
跡継ぎの信康が成長するまで影武者に家康を演じ続けさせる。それが願人坊主だった世良田次郎三郎。
願人というのは修験者のような存在で祈祷や呪い、寺社のお札等を配ることを生業とした漂泊民。蔑まれることもあった存在。
そうした者と夫婦を偽装することを拒んだ正室の築山殿は岡崎城に入らず?
世良田が浜松城に移ったので、ようやく我が子が住む岡崎城へ。
多くの徳川家臣、特に数正は信康が成長するまでと思い、耐える。


水分が飛んで、うまく絡んだ。

ところが、信長の命令或いは要請と称して、影武者はこともあろうに信康と築山殿こと瀬名を亡き者にして口封じ。
主家を乗っ取るつもりがありあり。しかし大っぴらにそれを言い立てることも出来ず。
更にもう一人、本物の家康の血を引く秀康を人質として秀吉の下に送ってしまった。
これで万一、徳川と秀吉が再度の戦となれば、人質は血祭りに挙げられて、主家の血統が絶えてしまう。何としてでも遺児、秀康を守らねばならない。そのために数正は秀康がいる秀吉の所へ?
数正の長男、康長も既に秀康と共に秀吉の下に行っていたので好都合。反対に自分の子が徳川の人質になる心配もない。


味噌落花生せ石川数正

黒摺り胡麻を振りかけて、黒白二つの胡麻。ゴマグリナンやセサミンという抗酸化物質もダブルで頂ける。
落花生の薄皮にもポリフェノールが含まれる。炒った落花生が香ばしく、甘味噌をまとって美味しく頂ける。

秀吉の下に行った後、数正の人生はパッとしなかったと思われる人も多いようですが、私はそうは思わず。
小田原征伐の後、数正は信濃深志で八万石とも十万石とも言われる大名に。
徳川家中では十万石クラスの大名となると、本多忠勝や井伊直政と言った武闘派のみで、内政や外交という地味な位置の家臣ではなかなかそんな高禄は得られず。
しかも秀吉の直臣になったことで、旧主と同列。
現代にも遺る松本城天守閣は数正と息子、康長の代に築城。


松本城

文禄二年(1593)に死去するまで、数正は入れ替わりの秘密を秘匿。
徳川家もそのことを言い立てる訳にもいかず、数正に手出しは出来ず。
本物と入れ替わった次郎三郎が三男の秀忠、つまり本当の息子に跡目を譲ったのは関ヶ原の後。
秀忠が自分の跡継ぎを家光か忠長かを迷っている時、家康(次郎三郎)は長幼の序を持ち出して、兄の家光にすべしと行動で示したのですが、何故か自分の跡目は兄の秀康ではなく、弟の秀忠へ。これも本当の息子に継がせたかったと考えれば、辻褄が合う。

数正の他にも徳川を出た家臣に本多正信がいますが帰参後、正信も最初は秀康を支持していたのに秀忠派に鞍替え。生き残りのために口を噤んだ?
数正も正信も本人の死後、家は取り潰されています。これも気になる。
本当の所は「どうなの家康」と訊いてみたくなります。
徳川家、ひいては江戸時代の根本に関わるかもしれない妄想をしながら、味噌落花せ石川数正をご馳走様でした。

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