#3 スカートを穿かされた子


わたしはスカートを穿かない

穿かないという選択を人生のある時期にした。

デザインの良し悪しではない。スカートに付きまとう記号的な女性性の重さに、元々抵抗感を持っていたのがとうとう鬱陶しくてかなわなくなり以来身に纏わなくなった。

スカートは絶叫する 

みなさん、ここにいるのはおんなです と

わたしは生物学的に女性である
そしてわたしにとって女性であるということはただそれだけである
自分が女であることをいちいち強く意識して生きていることもなければ、声高に主張する必要性も感じない

スカートは拘束する
体の外へ拡張していこうとする魂を

女子高生のコード云々言う前に、そもそも女ならスカート、男ならズボンといった決められた制服を着なければならない学生のコードからして、本人のジェンダー観や美意識や価値観を考慮せず、型に嵌め込もうとすることがどれほど野蛮かという話なのだが、そこは学校という檻の中。

拒否権は最初から奪われていた

本来あるはずの権利
それを持っていることすらも誰からも教えて貰えない 

もしくは、巧妙に隠されているそれ

元々自分のポケットに産まれた時からちゃんと入っていたそれは、いつのまにか一糸一糸縫い糸をこじ開けられ、ポケットに開いた隙間を見付けたわたしたちは、何かがそこにあったかもしれなくて、でも隙間から落っことしてしまってもう無い と思う。そこに何があったのかは、最早分からない。

でも時々、そこにあったはずの何かはとても大事なものだったんじゃないかという気がして、何度も真っ暗なポケットを覗きこんでは、やっぱり何も見つけられず、綻んだ縫い目の穴を見ては首を小さく振ってポケットから目を離す

実は穴からは何も落っこちていないのに

こうしていつのまにか 奪うともなく奪われている


今ようやく世の中が子供の心を磨り潰すような抑圧的な校則をいい加減改めようと動き始めてきたが、「金八先生」で上戸彩演じる性同一性障害の女の子が登場し話題になった当時もじゃあ実際に制服はスカートとズボン好きに選べる選択制にしようか、といった動きは現実では殆ど起こらなかった。

フィクションは現実にダイレクトに作用し得ないという、どこか他人事のように芸術や文学の提示する理想から線を引いて、距離を置く社会の空気は、今よりもっと強かった。
殊更に、1歩外に出たら許されない行為が平然とまかり通る、ルールに疑問を持つことすら許されない「学校」という名の外界から隔絶された聖域(監獄)と、その存在が障害としてカテゴライズされてはいるが、実態がよく分からなくて何となく不気味なマイノリティーの組み合わせは、メスを入れることがまた格段に難しかったのだと思う。


しかし、制服だからといってスカートを穿かされることに、見ているこっちまで居たたまれなくなるような、雑に女子として括られることに違和感を感じざるを得ない子が(それも小中高大と各々に)当時もやはり居た。
その子達もわたしも、「何だかよく分からない不定形な存在」として、周りも、そして自分自身もその身を持て余し、不安に苛まれて生きる他無かった。

皆と同じ格好をして、同じ机を並べて学校生活を送っているあの子

でも何かが痛々しい、どこか違和感が拭えないあの子の無音の叫びを、動くたび、話すたびギクシャクと軋る不協和音を聴こえないふりをしていた

目を逸らしてあげることが優しさだと、誰しも勘違いしていた

そういう子たちに、平穏で安らかな10代を過ごすことは不可能に近かった
どうにか人のかたちを保って生きているだけで、精一杯だった

続く

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