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少し距離を置きたくなってしまった話

もしかしたらこの話は、見る人によっては不快に思ってしまうかもしれないけれども、自分の気持ちと向き合うために、ちょっと言語化してみようと思う。

noteでも何度も話していることだけれど、わたしはこつこつと何かを続けることが本当に苦手だ。でもそんな私でもけっこう続いていることがある。Twitterだ。いわゆるTwitter廃人という属性の人間で、気づいたらTwitterを開いている。もう病気と言われてもしょうがないぐらいには思っている(ポジティブ)。

 

そのTwitterがしんどいと思うことがここ数か月何度かあった。
厳密に言うと、Twitterそのものがしんどいというよりも、Twitterに流れる言葉や、その言葉が醸し出す雰囲気に苦しく感じてしまう。

 

1つに「数字」のためにTwitterをする人が増えているということ。
確かに「SNSマーケティング」が一つの仕事になる時代だし、フォロワーが多いとそれだけたくさんの人に情報を届けることができる。だけれども、フォロワーを増やす目的(相互フォローをしてもらう目的)で、フォローをして数日後にフォローを返してもらえなかったからフォローを外すことを何度も繰り返す人が本当に増えた。

「数字は気にしたことなかったけども、フォロワー○人になりました!」みたいなツイートも、結局数字を気にしているのでは?と思ってしまうし、みんなが争うようにマーケティングをして、争うようにフォロワーを増やしている世界を見ていると、きっとわたしの居場所はここではないなと思ってしまう。

マーケティングを否定するわけではないけれど、マーケティングして得られたフォロワーよりも、私の世界観や発信している内容に共感してくれるファンを増やしたいと思っている私にとって、今のTwitterはどうも息がしづらく感じてしまう。

 

もうひとつ、色のない花が雑然と手向けられるように発せられる、著名人の訃報への追悼の言葉。これもわたしがTwitterがしんどくなってしまう理由の一つ。

もちろんすごくその人のファンで、応援していて、その中のニュースに悲しんでいる人がいることも知っている。わたしも応援している人がいるから、好きな人を応援できなくなることを考えたら、きっと胃を両手でぎゅっと締め付けられているような気持になることが想像できるし、その辛さを考えたら本当に胸が痛む。

ただ、そういうわけではない、これまでその人の口から一度も名前を聞いたことがない人からそういう言葉が出てくるのを見ていると、どうしても拒否反応がでてしまう。
言葉を選ばずに言うと、「気持ち悪い」とすら感じてしまう。

亡くなった人を悼むことは悪いことではない。もちろんそれは大前提としてあるのだけれども、そうやって、無造作にSNSという荒野に投げられた花は、きっとすぐに色を失って枯れてしまう。
きちんと周りにもきれいな花が咲いているような土地に、丁寧に植え替えられた花とは違っているように思えてならない。

すくなくとも、誰かに投げかけられる言葉は、たとえ口から直接発せられる言葉でなくとも、文字として綴られる言葉であっても、雑然とどこかもわからない場所に放られるべきではないと思ってやまない。

 

自由な世界にちょっとづつ足を踏み入れると同時に、よく言う真綿で首を絞められているような息苦しさを感じることもある。
もちろんわたしは選んだ道だし、同じように自由を選び取った人がみなわたしのような息苦しさを感じているかというとそうではない。自分の世界を守り、自分の世界で生きている人もたくさんいる。

そういう人を見ていると、自分が選んだ道が間違いだったのではないかと自己否定してしまいたくなることもあるのだけれど、それでも、昔の自分が望んだであろうこの道を、逃げずにもう少し歩いてみようかと思う。


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