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“普通”だったら、明日も生きたいと思えるのだろうか 映画『正欲』を観て

「私は欠陥なんだろうね」
映画『正欲』を観て、真っ先に思い浮かんだのは、二週間前に会った友人のこの言葉だった。

私は現在30歳の女であり、この友人も同い年の女性である。出会ってから10年くらい経ち、特別すごく仲が良いわけではないが、私の親友と彼女が仲が良かったり地元のコミュニティーが同じだったりすることもあって、地味に長く友人としての関係が続いていた。こんな風に書いて字面だけ見ると、随分ドライな関係だなと思われるかもしれないが、私は彼女に特別な親近感を抱いている。というよりも、私の身近では彼女だけ、彼女は私にとって唯一無二なのである。

20代のうちに一度も彼氏ができず、結婚の兆しが全く見えない独身女性は私のほかに、“私の世界”では彼女だけだった。

「若者の結婚離れ」や「未婚率の上昇」「少子化」などの言葉を毎日のように耳にするこの日本では、そんな女性は多分いくらでもいるだろう。だが、私が生きているコミュニティーの中では、20代で彼氏が一度もできなかった女性は本当に彼女以外一人も思い浮かばない。つまり、私の世界では彼氏ができるのが普通であり、結婚するのが普通である。

現に酔っ払っていた既婚者の友人には「結婚なんて婚姻届を出すだけなんだから、彼氏の延長線上のようなもの。結婚自体は”普通”なんだよね」と言われたこともある。私はその”普通”に心の中でひっそりと、ちょっとだけ傷付いていた(笑)。

だからこそ、連絡を取るわけでも、毎年会ってるわけでもない、関係性としては少しばかり遠い友人だろう冒頭の彼女だが…彼女という存在が、私の中では紛うことなき特別であり、間違いなくこの10年間支えになっているのだ。

そのため、私はこの映画を観て、佐々木(磯村勇斗)くんと桐生(新垣結衣)さんの関係性が私と彼女の関係性に近いものを勝手に感じてしまった(友人である彼女視点からは全く違うように見えている気もするが…)。

つまり、他の人には本当の意味では理解できないモノをお互いとだけなら理解し合える、そんなマイノリティな関係性。歪だけど繊細で深くて不思議な関係性だ。

冒頭の言葉は、数年ぶりに会ったそんな彼女と、お互いにまだ彼氏ができていないという報告をし合ったあとに、彼女が発したものだった。

「これだけ誰かと付き合うことができないのはきっと、私に欠陥があるんだよね」。そう言って少し笑った彼女に、私は鈍い痛みを感じてしまう。その痛みは彼女に対してと、自分自身に対しての両方だった。

彼女は昔も今も美しい。おそらくモテてきた人生だったことだろう。そして私もまた、友達は多い方だし、(恋愛以外では)人にかなり恵まれてきた人生である。人並みにモテてもきた。

でも、だからこそ、私には漠然とした怖さがまとわりついてくる。それも年々キツく私に絡みついてくる。私は“普通”ではない“バグ”なのではないだろうかと。どうしようもない“欠陥品”なのではないかと。

“普通”ではありたくないが、“バグ”として生きるのも地獄。佐々木くんの「この世は、明日も生きたいと思える人間に向けてのモノで溢れている」という言葉が脳裏にこびりついている。

私が私の世界の普通になれていたら、私は明日も生きたいと思えるのだろうか。毎朝、起きるたびに「今日が始まってしまった…」と思う私は、やはりバグなのだろうか。普通の人たちに溶け込む毎日に、私は歳を重ねるごとにゆっくりと、でも確実に、窮屈に、締め殺されていく。そんな気がした。

だから私は今日も貯金はできないし、真剣に婚活もできないし、投資もできないし、会社勤めもできないし、未来も考えない。破滅的で短絡的な刺激だけを求める人生を歩む。


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