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墜ちた男 第6話

「正解だ」
 数秒の間のあと、春名は溜め息とともに洩らした。無意識に呼吸を止めていたらしく、軽い酸欠を起こしたように頭が痛む。耳の奥では、犯人を指摘する藍沢の声がまだ響いていた。
「それはどうも」
 藍沢は澄ました顔で会釈し、膨らんだ胃をぽんと叩く。気づけば、テーブルの上の皿はすべて空になっていた。
「なかなか面白かったよ。とっておきのデザートって感じでさ」
 現実の事件も捨てたもんじゃないね、と藍沢は感心したように言う。
「今のは例外だ」
 春名は呆れ声で応じた。不可解な事件は藍沢の好物かもしれないが、春名たち刑事にとっては厄介なものでしかない。そもそもこの町では殺人自体珍しく、事件と聞いてすぐに浮かぶのは車上狙いに空き巣、せいぜい傷害あたりだった。その小さな事件の一つ一つにも、殺人同様に被害者と加害者がいる。
「……そうだ」
 春名は目をしばたたかせると、クッションから腰を浮かせた。
「どうしたの?」
 藍沢が不思議そうにこちらを見る。
「いや、ちょっとな」春名は立ち上がり、腰に片手を当てた。「今日中にすませなきゃいけない用事を思い出したんだ。悪いが、今から出てきてもいいか?」
 言いながら床の籠に手を突っ込み、白い半袖シャツを引っ張り出す。擦りきれたジーンズを脱ぎ捨て、紺のスラックスに穿き替えた。
「いいけど……僕は帰らなくていいの?」
「帰りたかったら帰っていいし、べつにこのまま泊まっていってもいい。帰るなら、鍵は新聞受けに入れといてくれ」
 シャツのボタンを留め、両手で裾を引っ張る。多少皺が残っているものの、気にせずベルトを締めた。スチール棚から車のキーを取ろうとして、寸前でその手を止める。
「タクシーを呼ばないとな」
 行き場をなくした手を首筋にやり、藍沢に背を向けた。そのまま足早にリビングを出る。
「気をつけてね」
 背後から藍沢の声が追いかけてきた。そこにかすかに、笑うような息の音が混じる。
「無事に高尾を逮捕できるよう願ってるよ」
「……っ!」
 春名はつんのめるように立ち止まった。振り向くと、藍沢は意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……なんのことだ?」
 春名は動揺を抑えて言った。幸い、声は上擦ってもかすれてもいなかったが、藍沢は愉しそうに目を細めるばかりだった。
「しらばっくれても無駄だよ。『すでに解決した事件』だなんて、もっともらしく言ってたけどさ」
 ほんとは解決なんてしてないんだろ、と強い調子で続ける。それは質問の形を取った断言だった。
「かといって、過去の未解決事件ってわけでもない。事件が起きたのは三日前で、今はまさに捜査の真っただ中なんだ。――違うかな?」
「なんだ、知ってたのか」春名は藍沢に向き直り、大きく息を吐いた。「そうだよな。さんざん報道されてたもんな」
 この友人はニュースなど見ないと思っていたが、どうやら見誤っていたようだ。事件は各メディアでも連日報じられていたから、知らないほうが不思議かもしれない。
 しかし、
「ううん」藍沢は即座に否定した。「事件のことは、ついさっきハルに聞くまで全然知らなかったよ。僕は新聞も取ってないし、テレビもニュースサイトも見ないからね」
「じゃあ、なんで――」
「簡単だよ」
 眉根を寄せた春名に、藍沢は軽く胸を張って応じる。右手の人差し指をぴんと立てて。
「第一の手がかりは、ゲリラ豪雨だ。事件の夜に降ったっていうけど、同じような雨は僕も経験してる。つい三日前、夜に散歩に出たときにね」
 ゲリラ豪雨自体は近年では珍しくないものの、季節も時間帯も同じというのはできすぎている。話に出た瞬間からずっと引っかかっていたのだと、藍沢は語った。
「細かいところまでよく憶えてるな」
 春名は思わず口を挟んだ。確かに、事件が起きたのが夏だとは言った。暑さで背中が汗ばんだとも。
「ありがとう。いちおう褒め言葉として受け取っておくよ」
 藍沢は澄まし顔で答えた。そしてゆっくりと、二本目の指を立てる。
「第二の手がかりは、ハルの態度だ。僕が散歩中に死体発見現場の近くまで行った、って話したとき、君は明らかに動揺したように見えた。急に怖い顔になったり、空の猪口を持ち上げたりね」
 事件が過去のものなら、三日前に誰かが現場付近を訪れようが訪れまいが、どうでもいいはずだ。藍沢はそう指摘し、問いかけるような目をこちらに向けた。
「じゃあ、なんで動揺したのか? それは容疑者が増えたからだ。槙と高尾に加えて、僕という容疑者がね」
「……ああ」
 ――わかってたのか。
 春名は気まずさに頬を掻いた。確かに藍沢の話を聞いたときは、厄介なことになったと思った。彼が久保塚を殺したとは考えられなかったが、死亡推定時刻と重なる時間帯に死体発見現場の近くにいた以上、本部に報告しないわけにいかないからだ。
「殺害時刻について話したときも、見るからにほっとしたみたいだった。あれは僕が容疑者リストから外れたからだろ?」
「わかってるなら訊くな」
 春名はつっけんどんに返した。久保塚がマンホールに落とされたのは豪雨の前なのだから、雨が降りだしてから散歩に出た藍沢は犯人にはなりえない。そう知ったときの安堵は、それは大きなものだった。態度にまでにじみ出ていたとは気づかなかったが。
「ほんと、あの雨には感謝しないとね。あれがなければ、僕が逮捕されてたかもしれないんだから」
 藍沢はおどけたように肩をすくめた。そしてまた表情を引き締めると、三本目の指を立てる。
「第三の手がかり。これが最後だけど、僕にはいちばんわかりやすかった」
 言うなり身をひるがえし、テーブルの上の徳利をつかむ。春名が止める間もなく、持ち上げて中の匂いを嗅いだ。一拍置いて、納得したように大きくうなずく。
「やっぱりね。これ、水だろ?」
 こちらを振り向き、顔の横で徳利を振ってみせる。底に残った中身がぴちゃぴちゃと小さく鳴った。
「……そうだ」
 看破されては仕方がない。春名は力なく洩らした。これでも自分なりに工夫を凝らしてはみたのだが。
「おかしいとは思ってたんだ」藍沢は徳利を置き、腕を組んだ。「アルコールに弱いはずのハルが、今日に限って日本酒を用意してる。しかもけっこうなペースで飲んでるのに、全然酔っ払わないんだから」
「よく見てるな」
 春名は苦く笑った。言われてみれば、箸より猪口を手にしていた時間のほうが長かった気がする。事件のことが気にかかり、食事を楽しむ余裕などなかったのだ。
「そりゃあ見てるさ。君とは長いつき合いだからね。でも、騙そうっていう努力は感じたよ」
 藍沢はテーブルからビールの空き缶を取った。表示を眺めるように、手の中で回してみせる。
「もしビール風味のノンアルコール飲料とかだったら、缶の表示ですぐにばれる。でも、日本酒の代わりに水を注ぐんなら、どっちも無色透明で簡単にはばれない。徳利に注いだところを、僕は見てないしね」
「キッチンで注いできたからな」
 日本酒には独特の芳香があるが、温めなければそれほど広がらない。湯気を上げる料理の前では、酒の匂いがしないことになど気づかれないと思っていた。
「じゃあ、なんで僕を騙してまで、ハルは酒を飲みたくなかったのか? 量が飲めないってだけで、嫌いってわけじゃないのに」
 藍沢は缶を置き、こちらを見た。灰茶の瞳で春名を射すくめ、凜とした声を響かせる。
「それは、酔っ払うわけにはいかなかったからだ。酔っ払ってしまったら、まだ残ってる大事な用がこなせなくなる。捜査を進展させて犯人逮捕に漕ぎ着けるっていう用がね」
 藍沢は頬をゆるめると、小首を傾げた。この答えで合っているか、と問うように。
 春名は返事の代わりに、細く長く息を吐いた。棒立ちの身体から力が抜けていく。
 ――完敗だ。
 なにもかも藍沢の言うとおりだった。春名が彼を招いたのは、手料理を振る舞うためではない。それは表向きの理由にすぎず、真の目的は、この風変わりな友人の知恵を借りることにあった。膠着状態に陥った事件を解決するための知恵を。
 三日前に起きた事件は、不可解な謎を秘めていた。藍沢ならきっと興味を示すだろう。春名はそう考え、彼を呼び寄せたのだ。
「悪かったな。騙すような真似して」
 春名は小さく頭を下げた。やはり、「すでに解決した事件」などという前置きは白々しかったかもしれない。表情があまり変わらない――要するに、常に仏頂面――とは言われるものの、春名は決して演技が巧いほうではなかった。それにしても、酒の代わりに水を飲んでいたことまで見透かされるとは。
「いや、楽しかったよ。おかげで腹も膨れたし」
 藍沢は邪気のない笑みを浮かべ、腹をさする。二人前近くの料理を収めた胃が、薄い胴から丸く突き出ていた。
「でも、事件の話は聞かなかったことにしておく。そのほうがいいんだろ?」
「あ、ああ」
 目配せとともに問われ、春名はあわてて答える。確かに、一般人に捜査情報を洩らしたとわかればまずいことになる。たとえその人物が、事件を解決に導いてくれたとしてもだ。
「ほら、もう行きなよ」
 藍沢は手振りで急かした。スチール棚に手を伸ばし、つかみ取ったものをこちらに放り投げる。
「……っと」
 どうにか両手で受け取ったのは、車のキーだった。
「飲んでないなら、車も乗れるだろ。急いでるからって飛ばすなよ」
 藍沢は冗談めいた口調で言い、ひらひらと手を振る。まるで厄介払いをするようなそのしぐさに、春名は思わず微笑んだ。
「……ありがとな」
 小さく洩らし、身をひるがえす。玄関のドアを開けると、とたんに生暖かい風が吹き込んできた。エアコンがつかの間忘れさせてくれていた、夏の空気だ。
 濃紺の空にはぽっかりと半月が浮かんでいる。春名は軽く拳を握り、コンクリートの階段を駆け下りた。
【終わり】

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