見出し画像

墜ちた男 第5話

「久保塚も容疑者二人も、カメラに映ってないのか……」
「受けて立つ」との宣言から五分後。藍沢はほとんど骨だけになった鮎をつつきながら、独り言のように洩らした。
「ってことは、久保塚と犯人は廃工場経由で現場に行ったってことだよな……」
 どうやら熟考しているらしい。箸先は鮎の骨を引っ掻いたりつまんだりしているものの、藍沢の視線は皿の上ではなく宙に向いていた。
「普通に考えればそうなる。問題は、現場に墜落死するような高い建物がないってことだ」
 春名は手をつけていない自分の鮎を、友人のほうへと押しやった。藍沢はまだあらぬところを見つめていたが、箸は自然と新しい皿に伸びる。
「高い建物か……そうだ」
 藍沢は閃いたかのように視線を上げた。鮎の身を頬張り、ごくりと呑み込む。
「事件の夜、近くで爆発が起きたんじゃないか? さっき『現場に生きた状態で』って言ったけど、現場に着くのとほぼ同時に死んだって可能性もあるだろ?」
「久保塚が爆風で飛ばされてきたっていうのか?」
 まさか、と春名は苦笑した。発想は面白いが、この田舎町はテロとは無縁だ。ガス爆発なら考えられなくはないものの、少なくとも事件の日から遡って数年はそれも起きていなかった。
「じゃあ、現場の南の公園にトランポリンがあったとか? それで被害者を飛ばせば、犯人も現場に行く必要がなくなる。なんでそんなことをしたのか、っていう謎は残るけど――」
「そんなものはなかった」炒め物の残りをつまみ、春名はきっぱりと応じる。「トランポリンだけじゃなく、シーソーもブランコもだ」
 もちろん、逆バンジーなどといったものもない。それなりに敷地が広いとはいえ、しょせんは田舎の公園だ。あるのは鉄棒と四阿あずまや、それに丸太を模したコンクリートのベンチくらいだった。それに東西のフェンスを加えてもいいが、それぞれ現場から五十メートルも離れていてはどうしようもないだろう。
「鉄棒と四阿か……ちょっと使えそうにないね」春名の説明に、藍沢は困ったように眉を下げた。「鉄棒にゴムを結んでパチンコ代わりにするってのも、さすがに無理があるし」
「当たり前だろう」
 ――いったいどこのサーカスだ。
 春名は再び半眼になり、炒め物を呑み込む。味は悪くないが、もう少し七味を効かせてもよかったかもしれない。
「だいいち、犯人が遊具を使ったんなら、公園に入った時点で防犯カメラに映ってるはずだ」
 しかし実際には、事件当日の午後七時から死体が発見されるその瞬間まで、カメラは誰の姿も捉えていなかった。つまり、その時間内に公園に立ち入った者はいなかったことになる。
「遊具で飛ばすのはなし……と。当然、ヘリやドローンってのもないよね?」
「ああ。事件当日も次の日も、ヘリなんて飛んでない。それに、七十五キロある人間を普通のドローンで運ぶのは無理だろう」
「じゃあ久保塚は、あくまでも死体発見現場の路上で殺されたことになるわけだ。それも、高い場所から突き落とされて」
 藍沢はまとめてみせたものの、謎解き自体にたいした進展はなかった。突飛な説をいくつか除外しただけで、結局振り出しに戻ってしまう。
「どうして、高い建物のない場所で墜落死したのか……」
 二匹目の鮎を平らげ、藍沢は再び熟考に入った。なにやらぶつぶつ言いつつ首をひねっていたかと思うと、「あ」と勢いよく顔を上げる。
「わかった。電柱や街灯から突き落としたんだ。高い建物はなくても、さすがにそれくらいはあるだろ?」
 声を弾ませ、畳みかけるように言う。その頬は上気したように紅かった。
 しかし、
「無理だ」
 春名はまたしても否定する。確かに現場の道路沿いには電柱と街灯が並んでいたが、それを犯行に使えたとは思えなかった。まず、街灯は高さが三メートルもなく、死因と矛盾する。一方の電柱は高さこそ十メートル以上あるものの、やはりそこから久保塚を突き落とすには無理があった。久保塚は致命傷を受ける前に、頭部に気絶するほどの外傷を負っていたからだ。
「殺される直前の久保塚は、殴られて意識を失っていたんだ。そんな状態の男を抱えて電柱に登るなんて、できると思うか? 容疑者の一人は女で、もう一人は足を怪我してたってのに」
「それは……難しいね。久保塚に登らせるって手もあるけど、気絶してたらそれもできないし」
「だろう? それにあの夜は、雨が降ってたんだ。仮に俺がやろうとしたとしても、足が滑って被害者もろとも……ってのがオチだ」
「雨?」
 不意に藍沢が片眉を上げた。面食らったように二、三度まばたきしたあと、「そうか」と呟く。
「死体は水溜まりに浸かってたんだっけ。服が薄汚れてたのも、たぶんそのせいだよね。雨が降ったのは、殺された日の夜?」
「そうだ。ちょうど三日前みたいな、ゲリラ豪雨だった。ここ数年、多いだろう?」
 参るよな、と春名は続けたものの、すでに藍沢はこちらを見ていなかった。
「ゲリラ豪雨……墜落死体……」
 テーブルに目を落とし、ぼそぼそと口を動かす。にわかに張り詰めた空気から、藍沢の脳内でなにかが組み上がろうとしていることが察せられた。春名は邪魔をしないよう、息を殺して待った。
 そのまま数分が経っただろうか。
「……なるほど」
 藍沢はこくりとうなずき、顔を上げた。灰茶の双眸そうぼうは凪いだ湖面のように澄みきっている。
「もしかして、わかったのか?」
 春名は目をみはった。謎が解けたかどうかは友人の顔を見れば明らかだったが、それでもまだ信じられない思いのほうが強かった。まさかこれほど短時間で、答えを出してみせるとは。
「うん、ちょっと手こずったけどね」藍沢は破顔して返す。「閃いたのは、この前ゲリラ豪雨に遭ったおかげだよ。ずぶ濡れになったのも無駄じゃなかったってことかな」
 謎を解く鍵は雨にある。
 藍沢はそう話し、炊き込みご飯を掻き込んだ。ついでに吸い物も飲み干してしまうと、クッションの上で姿勢を正す。
「いいかい――墜落死ってのは、『高い場所』から落ちて死ぬことだ。わかりやすいのはビルの屋上とかだけど、べつに建物じゃなくたっていい。高さのある橋とか、電柱とか、飛行中のヘリとかね」
「でも、電柱やヘリは使えなかった」
 春名は口を挟んだ。今さら議論を蒸し返すつもりじゃないだろうな、と目顔で問う。
「わかってるよ」
 藍沢は苦笑し、汁椀の底に張りついた三つ葉を箸でつまんだ。それを口に入れると、しゃきしゃきと小気味よい音をたてて咀嚼する。
「だから犯人は、別のものを利用したんだ。高い建物がない場所でも、墜落死を可能にする構造物をね」
 箸を置き、右手の人差し指を立ててみせる。その指先はくるりと回り、下方を示した。
「……床がなんだっていうんだ」
 ラグの敷かれたフローリングを見やり、春名は唇をへの字に曲げる。
「違う、もっと下。――地面の中だよ」
 藍沢はじれったそうに息を吐いた。小首を傾げ、「わからないかな」と目をしばたたく。
「落ちる先が深い穴の中なら、地上も立派に『高い場所』になる。久保塚は、マンホールに突き落とされて死んだんだ」
――マンホール。
 春名は猪口をつかんだ手を止めた。たちまち脳裏に、暗く深い穴が姿を現す。我に返って猪口に口をつけたが、喉を滑り落ちるのはぬるさだけだった。
「犯行の手順は単純なものさ。犯人は死体発見現場とは別の場所で、久保塚に襲いかかった。そのあと気絶した彼を、手近なマンホールに頭から突き落とした」
 藍沢は淡々と語り、こちらの反応を窺うように視線をよこす。春名は猪口を置き、口を開いた。
「マンホールに落としても、死ぬとは限らないだろう。とどめを刺すには不確実すぎるんじゃないか?」
 もし久保塚が助かれば、犯人には身の破滅が待っている。久保塚の証言により、殺人未遂罪で逮捕されるのは必至だ。
 だが、そう指摘しても藍沢の態度は揺らがなかった。
「そりゃあ、殺害方法としてはうまくないよ。でも、その時点で犯人がこう錯覚してたとしたらどうだろう? 久保塚はもう死んでるんだ、って」
「……気絶してたからか」
 春名は唸る。犯人に襲われた久保塚は、頭に重い外傷を受けて意識を失った。動転した犯人がそれを死んだと勘違いしたとしても、確かに不思議ではなかった。
「じゃあ、マンホールに落としたのは――」
「久保塚を殺すためじゃない。たぶん、死体を隠すことが目的だったんじゃないかな」
 もちろん、マンホールに落としたくらいではいずれ発見されるだろう。だが、発見が遅れれば、それだけ死亡推定時刻に幅が出る。下水に死体が押し流されれば、突き落とした場所さえ特定できなくなるかもしれない。犯人の狙いはそこにあったのではないかと、藍沢はまとめてみせた。
「でも、死体は翌朝には見つかった」
「そう。犯人にとって予想外なことにね」
 藍沢は小さく肩をすくめる。そんな外国人めいたしぐさも、彼には不思議と似合って見えた。
「すべてを狂わせたのは、ゲリラ豪雨だ。処理しきれなくなった雨水が下水道を逆流して、死体を地上に戻したんだよ。それも、突き落とされたのとは違うマンホールから」
 防犯カメラに犯人の姿が捉えられていなかったのも当然だ。犯人は事件の夜、死体発見現場に足を踏み入れなかったのだから。路肩で発見された久保塚も、自らそこにたどり着いたわけではない。別の場所にあるマンホールに突き落とされて絶命したあと、下水道を通って運ばれてきたのだ。死体の服が薄汚れていたのは水溜まりに浸かったせいもあるが、いちばんの原因は下水道を通ったことだ。靴を履いていなかったのは、流されているうちに自然に脱げたからだろう。
 藍沢はよどみのない口調でそう語ると、言葉を切ってこちらを見やる。
「死体が見つかったのは路肩だ。近くにはマンホールがあったんじゃないか?」
「……ああ」
 春名は答え、現場の様子を思い返した。マンホールは確かにあった。それも死体から五メートルと離れていない、車道上に。その蓋には〈雨水〉と記されていた。
「考えてみれば、手がかりはほかにもあったんだ。発見者は『見回り』の途中だったっていうけど、そんなに朝早くから防犯パトロールってのもちょっとおかしい。痴漢に狙われるのは登校中じゃなく、下校中の中高生なんだからね。念のため登校時も警戒するとしても、もう少し人が増えてくる時間帯に見回るのが普通じゃないかな」
「まあ……そうだな。部活に出る生徒もいるが、朝五時半はさすがに少ない」
 春名の言葉に、藍沢は「だろ?」と眉を上げた。炒め物の皿を取り、縁に残った玉ねぎを箸でさらう。
「じゃあ、発見者はなんでそんな早朝を選んだのか? それは目的が防犯じゃなく、災害の被害確認だったからだ。前日の夜に降ったゲリラ豪雨のね」
 炒め物を平らげ、藍沢は断言した。特に見るものもない道で「たまたま」「車道に出た」のは、マンホールの蓋が外れているのを見つけたからに違いないと。
「……なるほど」
 春名は藍沢が置いた皿に目を落とした。空になった円い平皿が、一瞬マンホールの蓋に見える。
「俺が見たときには蓋は閉まってたが、それは発見者が元に戻したからだっていうんだな」
「たぶんね。まさか事件と関係してるなんて思わないから、あえて話題にもしなかったんじゃないかな。豪雨で落ちた『青葉』を掃き集めてた女性が、わざわざ雨のことに触れなかったみたいに」
 結果的にその行動は、さらなる不可解を招くことになった。もし蓋が外れたままであれば事件はより早く解決できたはずだと、藍沢は話す。
「それなら、犯人は――」
「まあ、そう急がないで」
 春名の言葉をさえぎり、藍沢は唇をつり上げた。まるで、ここからが本当の楽しみだというように。
「確か、久保塚は即死じゃなかったんだよね?」
「ああ」
 春名はうなずいた。死体検案書によれば、致命傷を受けてから数分は生き長らえていたはずだという。
「じゃあ、死体に水を飲んだ痕跡は?」
「なかったが」
 かぶりを振った春名に、「だったら決まりだ」と藍沢は笑みを深くした。
「つまり久保塚は、マンホールに落とされてから数分は生きてたわけだろ。生きてるってことは呼吸もしてるんだから、その状態で水中にいれば水を飲むはずだ。それが飲んでないってことは――」
「マンホールの中には水がなかった」
 言葉を引き継ぎ、春名は視線を上げた。藍沢の目を見つめると、向こうもお返しとばかりに見返してくる。
「もしかしたら、少しはあったかもしれない。上流で雨が降りだしてればね。それでも、瀕死の久保塚が水を飲むほどの深さはなかった。もし充分に深かったら、水がクッションになって致命傷にはならなかっただろうし」
「つまり犯行は……豪雨の前」
 春名は大きく息を吐いた。吐息と一緒に、両肩から力が抜けていく。
「やだな、なんて顔してるのさ」藍沢がからかうように言った。「その感じだと外れてはいないみたいだけど、降参するにはまだ早いよ」
 せめて犯人の名前くらい聞いてくれないと、と肩をすくめる。
「……悪い」
 春名は首筋を掻いた。確かに、藍沢の推理はまだ途中だ。どうやって殺したかハウダニットが解けても、誰が殺したかフーダニットを解かなければ正解とはいえない。
「じゃあ、続けるよ」
 藍沢はこちらを一瞥すると、再び口を開いた。二杯目の炊き込みご飯――春名が手振りで勧めたもの――を口に運びながら。
「死亡推定時刻の上限が午後七時、雨が降りだしたのが午後七時半だ。犯行は豪雨の前なんだから、その間三十分のアリバイがある人物は犯人じゃないことになる。夕方の五時半から午後九時近くまで、同僚と食事をしていたような人物はね」
 その人物が店を出た午後八時五十分には、すでに雨が降っていた。それも、尋常じゃない豪雨が。
 藍沢の指摘に、春名は低く唸った。わずかに残った猪口の中身を、頭を反らして飲む。それでも喉を潤すには足りず、吸い物を一息に飲み干した。
「根拠はほかにもあるよ。だって死体の隠し方を見れば、だいたい想像がつくじゃないか」
 藍沢は飯椀を置くと、握った両手を空中で交互に動かしてみせた。車の運転の真似だ。
「車を運転できた人物なら、死体をマンホールに落として隠すなんてことはしなかったはずだ。それより車で山にでも運んで埋めたほうが、ずっと確実だからね」
 町の外れには里山があるし、穴を掘るのが面倒なら、落ち葉をかぶせておくだけでもマンホールよりはよほど見つかりにくい。「そうだろ?」と問われ、春名はつられるようにうなずいた。
「でも、現実に久保塚はマンホールに落とされてる。一時しのぎだとわかってても、犯人にはそうするしかなかったんだ。死体を山に捨てようにも、車が使えなかったから――正確には、足を捻挫していて運転ができなかったから」
 それでも、マンホールの蓋を開けて死体を中に落とすことならできた。マンホールの蓋は重さが四十キロほどあるものの、ボルダリングで鍛えた上半身があれば造作はない。使われたマンホールは犯人の自宅近くのものかもしれないが、そこから足がつく可能性は高くはなかった。まもなく雨が降りだして死体を遠くへ運び去ってくれることが、空模様から容易に予測できたからだ。
 藍沢はそう補足し、微笑んだ。細められた両目に愉悦の色を浮かべて。
「つまり犯人は、高尾暁斗ってことになる」
【第6話に続く】

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?