見出し画像

墜ちた男 第4話

『悪いことってのは重なるもんですね』
 事情聴取が始まるなり、高尾は溜め息まじりに言った。肩につくほどの髪を掻き上げ、傍らに視線を移す。その先にあるのは、事務机に立てかけられた二本の松葉杖だった。
『仕事はなくなるし、怪我はするし、久保塚さんは死んじゃうし』
 お祓いでもしてもらったほうがいいんですかね、と冗談めかして笑う。その声にも笑みにも、力はなかった。
 足首を捻挫したのは、事件の三日前とのことだった。趣味のボルダリング中に、うっかり足を踏み外したのだという。
『よりによって右足ですよ。車も運転できないし、家の中でも松葉杖だし』
 皺一つないパンツの裾から覗く右足首には、医療用のテープが厚く巻かれていた。ボルダリングで鍛えた上半身が逞しいだけに、よけいに痛々しく感じられる。漂う湿布薬の匂いも怪我人らしさを強めていた。
『でも、怪我ですんだだけましと思わなきゃですよね。久保塚さんと違って、治ればまた歩けるんですから』
 高尾は再び溜め息をつくと、居心地悪そうに身じろぎした。
「久保塚さん」と親しげに呼んでいるものの、高尾は久保塚の友人というわけではなかった。二人が知り合ったのも事件の五か月前にすぎない。しかし彼らの関係はある意味、友人以上に強固だった。高尾は久保塚から、相当額の借金をしていたのだ。
 町内の居酒屋で契約社員として働いていた高尾は、決して多くはない収入のほとんどを服飾費や遊興費に充てていた。預金残高が底を突くと同僚に金を借りたが、やがて膨らんだ借金が人間関係にひびを入れ、一度はそれを理由に解雇されそうにもなった。もはや同僚に無心することはできなかったが、だからといってこれまでの生活を急に変えるのも難しかった。新たな借入先を探していたとき、知人から紹介されたのが久保塚だった。
 離婚後、勤めていた会社を辞めた久保塚は、訪問販売業の裏で貸金業にも手を染めるようになっていた。公にできるようなやり口ではなかったが、伝手つてを頼りに少しずつ融資先を広げていったらしい。その一つが高尾というわけだった。
 久保塚から金を借りはじめてからも高尾の浪費癖は直らず、少し返済してはまた借りるということを繰り返していた。勤務態度は悪くなかったため毎月一定の収入はあったが、その居酒屋も事件の三週間前には閉店してしまった。やむなく職探しを始めたものの、そうこうするうちに今度は怪我をして、身動きが取れなくなった。医療費にタクシー代にと、金は出ていくばかりで、久保塚への返済も滞っていたという。
『そりゃあ、久保塚さんには悪いと思いましたよ。でも、不可抗力ってあるじゃないですか』
 高尾は目を伏せた。失業や怪我がなければちゃんと返済していた、と言いたいのだろう。
 返済が滞りだしてからというもの、高尾のもとには久保塚から頻繁に督促の電話がかかってくるようになった。それだけでなく、自宅アパートにも何度か訪ねてきたそうだ。
『正直、怖いなとは思いました。久保塚さん、見た目もいかついですからね』
 アパートの人にも迷惑かかりそうで、と高尾は声をしぼませた。
 実際、事件当日の昼間にも、彼があわてた様子で電話しているのを近隣住民が見ている。槙のマンションがある町中心部の住宅街とは違い、高尾の住むアパートの周辺は田畑と住宅が入りまじっていて人口も少ない。高尾はそのアパートの駐車場で、松葉杖を突いたままスマートフォンに向かってなにやら話していたという。時刻は正午すぎ。目撃者は近くの畑で作業をしていた高齢女性だった。
 それが久保塚からの電話であることは、通信記録からも裏が取れていた。もちろん、内容まではわからないが。
『いつもの電話です。早く返せって、それだけの』
 駐車場で話していたのは、整形外科から帰宅した直後に電話がかかってきたためだという。タクシーの精算をすませてから出たら、『遅い』と怒鳴られたそうだ。
『思えば、あれが最後だったんですよね』
 高尾はぽつりと洩らした。その眉間には憐れみを示すかのように、深い皺が刻まれていた。

「金銭的にも精神的にも追い詰められての犯行か……。ありえなくはないね」藍沢は箸を止め、納得したように言った。「ところで、その怪我っていうのは本当なの?」
「ああ。診察した医者にも話を訊いたから、間違いない」
 医師によると、高尾の捻挫は重い部類に入るとのことだった。右足に体重をかけられるようになるには、受傷から一週間――事件の三日後まで――はかかると。
「ふうん……。それでやっぱり、アリバイはなし?」
 上目遣いに訊ねられ、春名はうなずく。
「事件当日の午後六時までは、駅前のスーパーで買い物してる様子が店の防犯カメラに映ってる。怪我で車は運転できないから、行き帰りはタクシーだ」
 それについてはタクシー会社にも確認済みだった。高尾がアパートに帰ったのは、午後六時十分といったところだろう。
「それから次の日の朝までは自宅に一人きりで、アリバイはない。午前九時すぎに、ベランダで洗濯物を干してるところを目撃されるまではな」
 目撃者は、アパート裏手の一軒家に住む中年女性だった。彼女が庭の掃除に出たとき、高尾はちょうど松葉杖を突いてベランダに出てきたところだったという。彼は眼下に人がいることに気づかない様子だったので、女性は会釈することもなく掃除に取りかかった。その後は地面に落ちた青葉を掃き集めるのに忙しく、掃除を終えたときには、すでにベランダに高尾の姿はなかったそうだ。
 春名の補足に、藍沢は「なるほど」と唸った。炊き込みご飯の椀を、しっかりと手に持ったまま。
「じゃあ、死亡推定時刻の午後七時から十時までは、まるまるアリバイがないわけだ」確認するように言って、鶏肉とごぼうの炊き込みご飯を口に運ぶ。「念のため訊くけど、容疑者はこの二人だけだよね? まさか発見者が犯人だったなんてことは――」
「ない」
 春名は半眼になって応じた。必要以上にうがった見方をするのは、藍沢のもう一つの癖だ。
「発見者は事件当日の朝から午後十一時すぎまで、職場の工場にいた。機械のトラブルでメンテナンスに追われてたらしくてな。同僚の証言もあるし、アリバイとしては完璧だ。――これで満足か?」
「ありがとう」
 藍沢は小さくうなずき、飯椀を置いた。すぐさまグラスに持ち替え、ビールの残りを喉に流し込む。小気味よい音とともに白い首筋が波打った。
「いいね。ハウダニットにフーダニット――確かに僕好みの事件だ」
 口元を拭い、不敵な笑みを浮かべる。小刻みに頭を揺らすさまは、与えられた情報を咀嚼しているかのようだった。
「で、どうなんだ?」
 春名は訊ねた。徳利を持ち上げ、中身をとくとくと猪口に注ぎ入れる。事件の概要はすでに伝えたから、あとは謎を解くだけだ。お前にはその気があるのか、と言外に問いかける。
「もちろん、受けて立つよ」
 藍沢は胸を張り、春名を真っすぐに見返してきた。その両目には愉しげな光が宿っている。
「そこに謎がある限り、ね」
 謎に飢えた友人はふ、と息を洩らすと、切り干し大根を口に放り込んだ。
【第5話に続く】

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?