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墜ちた男 第2話

 男の死体が発見されたのは、よく晴れた早朝のことだった。
 正確には、午前五時半すぎ。季節は夏とあって、辺りはすでに明るかった。春名が現場に着いた午前七時には早くも気温が上がりはじめていて、半袖シャツの背中がじっとりと汗ばんだのを憶えている。
 現場は南北を公園と廃工場とに挟まれた片道一車線の道路だ。車道の両脇には一段高くブロック敷きの歩道が整備され、その境には背の高い雑草が生い繁っていた。公園の植え込みに面した南側の歩道が比較的開けた印象なのに対し、百メートル以上にわたって廃工場のコンクリート塀に寄り添われた北側の歩道はどこか陰気に感じられた。コンクリートの灰色が嫌でも目に入るせいかもしれない。
 男は廃工場に近い北側車線の路肩に倒れていた。がっちりとした身体を俯せにし、長い四肢を力なく地面に投げ出して。顔は浅く残った水溜まりに半ばうずめられていたが、その蒼白い頬を見ただけでも死んでいることはわかった。靴は履いておらず、身につけている柄シャツとハーフパンツは灰色に薄汚れていた。
『ただの散歩だったら、知らずに通りすぎていたかもしれません。たまたま近くで、車道に出たもので――』
 発見者である五十代の会社員は、動揺を残した表情でそう話した。彼は自治会役員を務めていて、見回りのため徒歩で現場を通りかかったところ、死体を見つけたという。歩いていたのは北側の歩道だというから、車道に出ていなければ雑草が目隠しとなって発見が遅れていたかもしれない。
『最初は、病気かなにかで倒れたのかと思いました。でも、よく見ると……』
 会社員は言葉を切り、顔をしかめた。現場で目にしたものがよみがえったのだろう。
『後頭部が、おかしな形にへこんでいて……。これは救急車より警察だな、と思ったんです』
 死体の身元はまもなく判明した。事件を伝え聞いた女性が、『自分の元夫ではないか』と名乗り出たのだ。
 死んだのは久保塚くぼづかりょう。隣の市で訪問販売業を営む、四十二歳の男だった。
 発見場所が路肩だったことから、捜査は事件と事故の両面を念頭に進められた。刑事課の春名が呼ばれたのもそのせいだ。より疑わしいのは交通事故だったが、現場には車の部品などの遺留品もブレーキ痕もなかった。そのため、別の場所で撥ねられたあと、轢き逃げ犯の手で現場に運ばれた可能性が出てきた。
 しかし、
『交通事故ではないとのことです』
 解剖の結果は、そうした予想を覆すものだった。死体検案書の内容を淡々と読み上げながらも、春名は内心困惑せずにはいられなかった。
 久保塚は車に撥ねられたのではない。彼は十メートル程度の高所から墜落して後頭部を強打し、脳挫傷を起こして死亡したというのだ。即死ではないものの、受傷から死亡まで十分は保たなかったとみられる――死体検案書にはそんな記述もあった。
 死亡推定時刻は、死体発見前日の午後七時から午後十時のあいだ。死体の頭部には前述の致命傷のほかに、鈍器で殴られたような傷も認められた。それは命にかかわるほどではないものの、昏倒する程度には重い一撃とのことだった。
『要するに、こういうことか? 誰かが被害者を殴って気絶させたあと、高いところから突き落とした……と』
 同僚の言葉に、春名は犯行の様子を思い描いた。黒いシルエットと化した犯人が、鈍器を手に久保塚に殴りかかるさまを。
 とはいえ、事件の大部分はいまだ闇の中にあった。さらなる手がかりを得るため、まずは久保塚が突き落とされた場所を特定することが求められた。
 春名たちはさっそく動きだしたものの、すぐに頭を抱えるはめになった。高さが十メートルもあるような建物は、現場周辺には一つとして見当たらなかったのだ。
 死体発見現場は公園と廃工場に挟まれているが、そのどちらにも人を突き落として殺せるような構造物は存在しなかった。廃工場を取り囲む塀はせいぜい三メートルといったところだし、工場の建物自体も平屋建てだった。
 ほかに考えられるのは、久保塚が別の場所で殺害されたあと現場に運ばれた可能性だが、調べが進むにつれてその線も立ち消えた。歩道の整備された区間――現場を中心とした、公園沿いの約百メートル――の東端と西端には防犯カメラが設置されていたからだ。
 それらは下校中の中高生を狙った痴漢被害を受けて設置されたもので、当該区間に入れば、車も人も必ず捕捉されるようになっていた。同様のカメラは公園南の出入口や公園を東西から挟むフェンスにもあり、やはり公園に立ち入ろうとする者は避けては通れなかった。そして事件当夜は、どのカメラにも不審なものはいっさい映っていなかった。久保塚の死亡推定時刻の上限である午後七時から、発見者が歩道に立ち入る翌朝五時すぎまでずっと。
 公園の北辺はとぎれとぎれの植え込みになっていたが、その両端は歩道のカメラの位置と重なるため、植え込みから公園内に入って現場に抜けるといったことはできない。カメラに捕捉されることなく現場にたどり着くには、廃工場の敷地に侵入する方法しか考えられなかった。
 廃工場の塀は歩道の設置区間より東西に十五メートルずつ長く続いているから、歩道に入る手前で塀を乗り越え、現場付近でまた塀を越えて道路に戻ることになる。ただしその場合も――どうしてそんなまどろっこしいことをしたのかは措くとして――、死体を担いで三メートルの塀を越えられたとは思えなかった。廃工場の敷地を経由したとすれば、二回の塀越えは久保塚自身に行わせる必要があったのだ。

「つまり被害者は現場に生きた状態でやってきて、そのあと現場かその周辺で犯人に殺されたってわけだ」
 春名はそう結論づけると、猪口を取って唇を湿した。現場の状況からはほかに考えようがないのだが、この説には大きな欠点がある。それは現場の状況と久保塚の死因との矛盾だった。
「死体発見現場が殺害現場でもあるなら、被害者はそこで墜落死したことになる。だったら、いったいどこから突き落とされたんだろうな?」
 抑揚をつけた問いかけに、鮎をつついていた藍沢の箸がぴたりと止まる。
「平地での墜落死……か。確かに妙だね」
 藍沢は鮎を裏返すと、箸先で器用に皮を裂いた。ほどよく脂の乗った身を口に入れ、味わうように咀嚼する。
「美味しい。やっぱり、夏は鮎を食べないと。ところでその現場って、リサイクルセンターからずっと北にいったあたり?」
「は?」不意打ちのように訊ねられ、春名は目をしばたたいた。「……ああ、そうだ。町のグラウンドに面した公園の、さらに北になる。――それがどうかしたのか?」
 眉をひそめて返すと、藍沢は「ううん」とかぶりを振った。
「ああ、あそこか、って思っただけ。この前たまたま、近くまで行ったから」
 なんでも彼は三日前の夜、現場近くまで歩いていったのだという。あと数十メートルでブロック敷きの歩道に入るというところまで。
「歩道って、すぐそばじゃないか。なんでそんなところに」
 春名はつい問いただした。藍沢の住むアパートは、現場から東に三キロ近く離れた里山の麓にある。現場付近には商業施設もないから、ふらりと買い物に出たわけでもないだろう。
「気づいたらそこまで行ってたんだよ。傘をさしてて、周りがよく見えなかったってのもあるけど」
 わかるだろ、と苦笑し、藍沢は再び鮎をほぐしにかかる。翻訳作業に詰まると散歩に出るのは、確かに彼の癖だった。思えば学生時代も、試験前になるとキャンパス内を放浪していたものだ。
 アパートを出たのは七時四十五分ごろ。そのときにはすでに小雨が降っていたという。「いい感じに考えもまとまってきたし、雨が洒落になんないくらいに強まってきたから、八時半には引き返した。それでも家に帰ったときにはずぶ濡れでさ」
「ああ……あの雨はひどかったな」
 春名は同意し、猪口を握る手に力を込めた。今でこそ外は晴れて星が見えるが、三日前の夜は星どころか、向かいの住宅さえ豪雨にかすんでいた。午後七時半に降りだした雨は一時間ほどで激しさを増し、町のあちこちで道路を冠水させた。午後九時半には弱まってきたものの、あふれた水はすぐには引かなかった。
「ここの駐車場も水が来たんだ。もう少しで俺の車も浸かるところだった」
 春名は苦々しく洩らし、猪口を持ち上げる。しかしあいにく中身は空だった。
「それで、容疑者だが」
 徳利を傾けて猪口を満たし、春名は咳払いをする。一口飲むと、テーブルの上で両手を組んだ。
「怪しいのは二人いる。一人目はまき沙也香さやか、三十五歳」
 春名の脳裏に、黒髪を一つにまとめた小柄な女の姿がよみがえる。彼女は死体の身元を確認した、久保塚の元妻だった。
【第3話に続く】

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