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聖なる理念について④963/エニアグラム

聖なる理念について①
聖なる理念について②852
聖なる理念について③147】の続き。

ポイント9、6、3の聖なる理念について解説します。

ポイント963の聖なる理念は、他のポイントの聖なる理念を下支えするより根本的な様相です。


ポイント9 — 聖なる愛(全体性)


ポイント9はエニアグラムの中で特殊なポイントです。

というのは、他のポイントはポイント9のバリエーションともいえるからです。ポイント9の認識システムは、気づきを麻痺させて、「意識の対象物ではなく、意識そのものが私である」ことをわからなくさせます。1~8自我は、自分が意識そのものではなく、思考や感情や肉体が自分の中心だと思い込んでいますが、そのためにはまず、気づきを麻痺させ、夢遊病者のような状態にならないといけません。そうした意味で、すべての認識システムの始まりなのです。

このように9は、認識システムとして特殊な立場にありますが、聖なる理念でも9は特殊なポイントなのでしょうか?
おそらくYESです。聖なる理念は、いっさい分離のない一体の一なる者(リアリティ)の9つの様相なので、結局は同じものを説明しているので、特殊というのは誤解を招く可能性もありそうですが、ポイント9の聖なる理念が指し示す様相が、ある意味、もっとも根本的なものなのは間違いありません。だからこそ、エニアグラムのあの図形の中で一番頂点の真ん中に位置しているのです。

聖なる愛は、もちろん愛のフィーリングのことではありません(フィーリングは生じては、消えていくものです。ポイント819の聖なる理念は全体性の視点であり、このレベルでは生じては消えていく何かの知覚はありません。)さまざまなシチュエーションで「愛」と言う言葉が使われますが、極めて抽象的なものですし、愛が何かわからないとい人も少なくありません。でも、聖なる愛は、そのどれとも違っているけれど、そのどれとも関連しています。

ちなみに、デジタル大辞書では愛はこのように定義されていました。

1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」

2 (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」

3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。

4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。

5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと

6 仏教で、主として貪愛(とんあい)のこと。自我の欲望に根ざし解脱(げだつ)を妨げるもの。

デジタル大辞林

聖なる愛は、存在(リアリティ)を愛すべきものたらしめるです。ちょっとわかりにくいですね。だいぶ平たくいうと、いっさい分離のない一体の何か(リアリティ)は、いい感じがするものであり、そのいい感じの様相を聖なる愛と呼んでいます。デジタル大辞林での定義のどれも、良さがある・好ましさを感じさせるという点が共通しています。(6の貪愛「貪(むさぼ)り欲すること。きわめて好むこと」という意味)

リアリティにら超素敵で、心地よい様相が備わっています。それが、私たち人間が日常を送る次元で自我を通して表現されるのが、愛のフィーリングであったり、感謝、価値ある感じ、喜び、楽しさ、美しさです。

そんなことはほぼ無理なんですが、リアリティをそのまま知覚することができるなら、リアリティの聖なる愛の様相によって、私たちは喜びでいっぱいになって、大好きになるしかないのです。現象の次元でも、愛がなんの説明もなく良きものとされているのは、リアリティのレベルで存在が愛すべきものだからです。

リアリティはなんか良いものなんです。もし、無味感想なもの、メカニカルな法則のようなものだとしたら、誰も悟りたい、目覚めたい、自己の本質に覚醒したいなんて思わないはずです。悟りってリアリティに目覚めることですから。

聖なる理念は、言葉で説明できないものなので、どうしてもおかしな表現になりますが、聖なる愛は概念を超えたポジティブさでもあります。ネガティブに対するポジティブでもなければ、こうしたものがポジティブだという定義もありません。でも、リアリティを垣間見れば見るほど、もともとあなたの中にある(中というよりもあなたそのものである)幸せや充足感に気づきます。

思考が休息にはいり、心身がゆったりしているとき、良い感じを感じるはずです。

良いも悪いもありません。とよく言うけれど、概念を超えたポジティブさというのは、悪いがない「良い」です。

サット・チット・アーナンダーというサンスクリット語があります。リアリティのレベルでの自己の本質を示す言葉です。サットは存在、チットは意識、アーナンダーは至福を意味します。ここにもリアリティの概念を超えたポジティブ性(良さ)を見てとれます。

愛、感謝、価値ある感じ、喜び、楽しさ、美しさに私たちが心惹かれるのは、無条件に良きものと受け止めるのは、リアリティの聖なる愛の様相の反映なのです。

ポイント6 — 聖なる信頼(リアリティと人間の関係)


個別性のある次元を視野に入れ、人間との関連という視点を交えると、ポイント9の聖なる愛はどのように知覚されるでしょうか? 

ポイント6 の聖なる理念の聖なる信頼は、ポイント4の「聖なる原点」との対比で考えると、わかりやすいでしょう。聖なる原点「個別性を持つ存在は、絶対に源から切り離されることはない」という知覚でした。一方、ポイント6の聖なる理念がカバーするのは、源から切り離されるかどうかについてではなく、そもそも、源(全体性、リアリティ、あるいは神)が存在するのかどうかです。聖なる信頼は、源は”ガチで”存在し、それが個別性のある次元に現われる現象の土台、つまり私たちの一人一人の本性で、さらにその本性は、”良きもの”であり、好ましいものであるという知覚です。源は聖なる愛という様相を持つリアリティのことだから、当然、そうなります。ポイント4の聖なる原点は、ポイント6の聖なる信頼がないと成り立ちません。

”ガチで存在し”と目立つ形で書いたのには訳があります。ポイント6の認識システムの囚われは疑いで、主機能は妄想です。外の世界は脅威であり、未知は脅威であり、その怖さを感じないように思考に意識を向け続けるのがポイント6の認識システムの動きです。6の認識システムが関心を向け続ける思考には実体がありません。肉体は物がありますし、感情は肉体に根ざしますが、思考には根差すものがありません。実体のない思考にフォーカスし、そして、あらゆることを疑う6の認識システムは、自分の考えや感情にさえ確信がもてません。道徳観や思想、責任感をスーパーエゴが利用して何かを妄信することはあります。でも、自分の中に基本的な善良さがあるのには気づけません。自分を信頼などできないのです。基本的な善良さが存在し、それが自分の根本だという実感はポイント6の認識システムにとっては晴天の霹靂なのです。

聖なる信頼は、リアリティの様相なので、何かの根拠・理由に基づく信頼ではありません。「自分を信じよう」とよく言われますが、本質的な意味での、つまり聖なる理念の「自分を信じる」には、根拠は一切必要がないのです。信じるという行為でもありません。ただ、信頼がそこにあるのです。

聖なる信頼の知覚から、強さが生れます。源が実在し、それが自分の土台であったら、これ以上心強いものがあるでしょうか?


ポイント3  — 聖なる法則、聖なる希望(リアリティにおいて働きとは)


最後はポイント3の聖なる理念です。おそらく、聖なる理念の中で、一番、理解に難しさを感じるかもしれません。あるいは、拒否反応が起きるかもしれません。私にとっても、とても難しく、適切な説明ができる自信はまったくないのですが、できる限りの範囲でやってみます。

聖なる理念とは、一切のエゴのフィルターなしに、つまり、完全に客観的にリアリティを体験したらどんな風に知覚されるのかを9つの視点から説明したものです。ポイント3の聖なる理念は、2の聖なる自由と4の聖なる原点と同様に、活動、出来事、変化、プロセス、時間の経過など、動きのあるもの、つまり働きという視点でリアリティを眺めたときの知覚ですが、聖なる自由と聖なる原点の基盤となる様相が3の聖なる法則、聖なる希望です。

ここで、いったん、リアリティのことを忘れて、宇宙はバラバラの物が集まって構成されていると思って世界をみてみましょう。私が誰かに何かを言ったり、誰かに向けて行為することで、その人に影響を与えます。物に対しても同様に、私がドアを開けると、ドアは開きます。私がドアに影響を与えました。太陽の光が当たると、その影響で植物は育ち、月の引力で満潮干潮が起きます。誰かがくしゃみをし、ウィルスを吸い込むと、風邪がうつります。このように、何かが何かに影響を与えるという見方は、それぞれが分離していることを前提としています。そのすべてをリアリティのレベルで分離のない、ひと塊としてとらえていれば、影響を与えるとは言えません(見えません)。


ちょっと無理やりですが、こんな想像をしてみてください。
ひと塊の粘土があります。その粘土は一瞬も休むことなく、ずーっと形を変え続けています。普通の粘土だったら、この図のように誰かが手で形を変えますが、特殊な粘土で自発的に自動で形が変わり続けていると(無理やり)想像してください。粘土には土の粒という個別性があるけれど、自動的に勝手に形を変え続けているので、神様のような絶対的な影響力を持つ何かや、右側の粒が左側の粒を押したから、ある形になったのではなくて、土の粒すべてが同時に動いています。しかも、ひと塊の粘土であることは、何も変わりがありません。でも、何もかもが毎瞬変わり続けています。すべての土の粒子の動きがたまたま一斉に起こったのでも、動きのタイミング偶然に一致したのではなく、一体の塊が常に動いているので、同調(調和)以外の状態はないのです。

これは、現象をどう見ているかの日常的な感覚に反するものかもしれません。なぜなら、原因と結果の法則に異議を唱えるからです。リアリティのレベルでは原因と結果の法則は存在しないのです。

一なる者は、絶え間なくすべてを創造し、リニューアルしています。でも、創造者がいて、創造されるものがあるのではなく、創造するものと、創造されるものは同じです。この表現が適切かどうかはわかりませんが、一なる者は常に全取り換えでアレンジを変えているのです。

創造というと、何か新しいものが作られると考えてしまうかもしれませんが、そうしたことではなく、一なる者が自分自身をあまたの物や、存在や現象として絶え間なく表現しているのです。だから、創造するものと、創造されるものが一緒なんです。だから、先ほどの粘土のたとえで、粘土をこねる人はいなくて、勝手に粘土が形を変えているイメージをしてもらいました。


私たちは時間軸を思考の中に無意識に入れてしまうので、想像すら難しいのだけれど、リアリティのレベルでは時間も存在しません。瞬間瞬間、全宇宙が新たに作られ続けているのですから。ある時点で宇宙が作られて、それがずっと変容して続けているのではないんです。

また、絶え間ない創造、変容、自己開示は、ランダムで適当に起こっているのではありません。地球の出来事の次元で見ると、かなりぐちゃぐちゃですが、それは見かけ上のことであって、リアリティのレベルでは最適な動きなのです。そもそも、(分離がないレベルとあるレベルを一緒に表現すると)すべてが1つのアクションとして動き、完全なる調和の中にあります。いつもすべての粒が一緒に同調して動いています。その動きは、真実に向ける方向性を持っています。

聖なる法則
聖なる希望をなんらかの形で知覚することができれば、楽観的にならざるをえません。起こることにをオープンに受け入れ、一なる者が今表現している何かを信頼することができます。一なる者は常に調和的であり、(たとえ自我のフィルターをとおしたときにはそう見えなくても)常に私たちの経験を最適化しているのですから。


自由へのエニアグラム イントロダクション 6月30日開講






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