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聖なる理念について③174/エニアグラム

聖なる理念について①
聖なる理念について②852】の続き。

ポイント1、7、4の聖なる理念についてのまとめです。




ポイント1 — 聖なる完璧(全体性)


8の聖なる理念でみたように、リアリティにはいっさいの分離はなく、それは一個の一体の均一な何かです。これがリアリティの真実です。

「リアリティは部分に分けられない何かで、今この瞬間そのもの。それはまた、絶対的に完璧な何かだ」というのが、聖なる完璧です。

聖なる真実も聖なる完璧も(そして、9の聖なる愛も)全体性の視点からのリアリティの知覚です。全体性という視点に3つのバリエーションがある、と考えたらいいでしょう。

聖なる理念の最初の説明で使ったスイカ)🍉の例でいうと、全体性の視点だと、一個、重さ、丸さが見てとれるという感じでしょうか。

聖なる理念は、私たちのマインドを超えるものなので、理解したり把握したりすることは、そもそもできません。その中でも聖なる完璧は、反発感が起こりやすい理念なんです。

「リアリティは一個しかなくて、そこで何が起こっても、それは絶対的に完璧で、それは絶対的に適切だ」、と言われても、周りを見回すと、どうみても、まずいことがたくさん起きていませんか? 暴力や破壊、そして悲しみや苦しみが…

ここらへん、非二元が敬遠されるポイントでもありますね。

説明しがたいものを説明しようとしているところで無理ゲーなんですが、ポイント8、1、9の聖なる理念では、固有性を見ていないんです。

また、この風船によるリアリティのインチキ・イメージ図で説明します。(リアリティを絵に描くなんて、無理ゲー中の無理ゲーなのでインチキです)



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たとえば、私がビルの屋上に立っていたら、後ろから知らん人に押されて、下に落ちて、死んだとします。

8、1、9は、人や植物やタコなど個別性を見ていません。

ビルから落とされる例ですが、空気(知らん人)が、空気(私)を押して、空気(空中)を逆さまに落ちて、空気(地面)に当たるになります。

全体性の視点だと、こんな感じです。 分離した知らん人、分離した私、分離した空中、分離した地面は見ていないのです。全部同じひと塊の空気。

何が起こっても完璧で、適切なら、成長とか目覚めとかどうでもよくね?
って思う方もいるかもしれません。もちろん、その思いも完璧です。
ですが、自我の成長で、すでにいつもここにある完璧性のいろいろなテイストを発見するできます。そして目覚めは、完璧性が自分の存在の土台だと知ることです。

さて、ポイント1のスーパーエゴ(エゴを裁くエゴ)は、もちろん、聖なる完璧を実感することはことはありません(エゴにはわからない何かだから)。その代わり、聖なる完璧という概念を濫用し、主観的に見て不完全なものを裁きます。そして、取り除こうとします。エゴからしてみれば、完全は不完全と対になった形でしか理解できないのです。

聖なる完璧 は、ただ、あるがままに見ることが可能になったときに立ち現れる何かです。


ポイント7 — 聖なる仕事(リアリティと人間の関係)


ポイント1の聖なる完璧は個別性が見える視座からはどのように知覚されるか。それがポイント7の聖なる理念です。一体である全体性の中で、さまざまなものが現れては消えます。さまざまな色やさまざまな形が現れ、絶えず変容が起きています。

個別性においては、この変容には方向性があります。発展という方向性です。この方向性を聖なる計画と呼びます。目標や目的のようなものではありません。何か特定の決まった目標も目的もありません。そうではなく、より詳細になり、展開し、枝分かれする方向に動いています。

その変容・発展の実際の動きのことを聖なる仕事と呼びます。何か特別な聖なる仕事があるわけではないんです。天命や天職や使命でイメージされるものとは関係がありません。今この瞬間、あなたに起きていることが聖なる仕事です。何者も一なる者(全体性)からはみ出ることはできないし、一なる者の変容の一部でない人はいないからです。とすると、あなたは聖なる計画がどんなものかを理解して、それに沿うものを探す必要がないのです。今、この瞬間に100%注意を向けるのが聖なる仕事に自分を開くことになります。次に何が起こるのか分からないのが聖なる仕事なんです。

「”聖なる仕事”だと思えないことをしているのはダメで、聖なる仕事をすべきだ」と考えたり、聖なる仕事をしていないことに罪悪感や失敗感を感じたり、こうゆうことが起こるべきだと考え、それが起こっていなかったら自分や周りを修正しようと躍起になっているとしたら、エゴが聖なる仕事を誤解し濫用している証拠です(エゴは聖なる理念を知覚することはできないので、誤解と濫用はしょうがないです)。その誤解に基づいて考えることで、逆に聖なる仕事から目を背けています。

もちろん、私たちは何をどうしても、一なる者からはみ出ることはありませんから、聖なる仕事から目を背けようと何しようと、やっぱり聖なる仕事の中にいます。でも、マインドには幻想を見続ける機能があり、聖なる仕事から目を背けることができます。そして、幻想を見続けるのです。

マインドがイメージする聖なる仕事に注意を払うのではなく、今、ここで起きていること、そして、未知に自分を委ねると、聖なる仕事の中にしかいない自分に気づくでしょう。
そこには、退屈も、目標も、引き寄せもありません。愛というマインドによって未知な何かに先導され、生きることと=聖なる仕事に没頭するのです。


ポイント4  — 聖なる原点(リアリティにおいて働きとは)


ポイント4の聖なる理念は聖なる原点と呼ばれます。一なる者の中で、さまざまなものが現れては消えます。さまざまな色やさまざまな形が現れます。つまり、さまざまな色や形が生まれる源は一なる者です。絶えず変容・発展が起きることの知覚が聖なる計画・聖なる仕事ですが、その中で現れたさまざまな色や形、つまり個別性を持つ何かは、絶対に源から切り離されることはありません。それが聖なる原点です。切り離されるどころか、一なる者が変容して個別性が生じ、そして一なる者に消えていくのですから、一なる者そのものです。

聖なる原点をエゴが誤解し、濫用すると、「源はどこか特別な場である」ととらえます。ある意識状態になったときに到達できる特別な場です。喜びや充足感の感情体験があるときには、源に繋がっていると感じ、そうではないとき ― たいていはそうではないときなのですが― 源に繋がっていないと感じます。そして、源に戻りたい、源に繋がっている自分に戻りたいと切望します。それが上手くいかなくて、悲しみや落ち込みの感情に浸ります。繋がっていないことが、ポイント4特有の「自分にはおかしなところがある、欠けているところがある、傷がある」という感覚に油を注ぎます。

喜びや充足感の感情体験は、源から現れて消える個別性の現象です。それも源ではありますが、源とイコールではありません。波が海とイコールでないのと同じです。そして、もちろん、悲しみや落ち込みも、源から現れて消える個別性の現象です。それも源ではありますが、やはりイコールではありません。

ポイント4は、自分のエッセンスである喜びを感じやすい傾向がありますが、聖なる原点の理念と縁があり、エッセンスの現象化である喜びの体験を源と繋がっている状態と誤解し、喜びの感情体験にに執着します。いわゆるポジティブな感情体験がないときに、いわゆるネガティブな感情体験に入ります。いずれにしろ、感情の体験に執着します。ポイント4にとっては、感情の波がないことは死んだような気持ちがするのです。


感情が凪いでも、そこに残されるものがあります。
それは何でしょうか?

それが源であり、存在の土台です。

そこから現象のすべてが生じ、すべてそこに消えていきます。源=存在の土台だけが、来ては去ることのない不滅のリアリティです。それがあなた自身でもあります。これが聖なる原点が指し示す知覚です。


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