『自由へのエニアグラム』の手引き ④
『自由へのエニアグラム』(イーライ・ジャクソンベア著)を読むための手引き④です。(手引き①、手引き②、手引き③)
エッセンスと聖なる理念と聖なる道
今回の手引き④ではエッセンスと聖なる理念と聖なる道について解説しますね。
認識システムの説明の冒頭に掲載された表は
囚われとか罠とか、あんまり嬉しくなさそうなカテゴリーが多いんだけれど、その中でも、この3つはなんだかよさげに見えます。
実際、まあ、よさげなものなんです。
そのよさげなこの3つの説明が、本文中になかなか出てこない上に、非常に少ないと思いませんか?
その理由を”わたしなり”に解説しますね。(違ってたらごめん)
偏った知覚と認識をもたらす認識システム(自我)のせいで
本当のわたし
―― 私の本音とか本当にやりたいこととかではなくて、
名前を付けられるようなものではないんだけれど、
便宜上、真我とか純粋意識とか真実とか自己とか愛とか仏性とか空とかって言葉で指し示される何か ――
に、気がつかない
というのが多くの人の現状です。
「認識システム=わたし」だと感じています。
認識システムは怒り、恐れ、自己嫌悪(欠乏感)をベースにして機能するので、「認識システム=わたし」だと、恐れ、自己嫌悪(欠乏感)をベースにして生きている状態なのです。
すると、表面的なマインドではいい感じであっても、心の奥では違和感を感じていたり、不要な苦しみに陥ります。
『自由へのエニアグラム』は、
本当のわたしを覆って見えなくしている認識システムを越えて、
幸福と至福という本性があふれる存在でありたい人のサポートになるツールです。
幸福と至福というあなたの本性っていうのを、バシバシ実感できている人はレアですよね。認識システムが自分だと思っている人が圧倒的に多い。認識システムをよりマシなものにすること、認識システムを磨くことが、自分らしく生きることだと思っている人は驚くほど多いです。
名前を付けられるようなものではない本当のわたしが一体何かがわからないんだから、しょうがないよね。
『自由へのエニアグラム』でも、本当のわたしがどんなものかに関する記述は第一部と第三部にあるのですが、ページ数としては、認識システムの説明に比べてずいぶん少ないです。
少ないだけじゃなくて、ちょっと曖昧というか、
イメージしにくいかもしれない。
わたしは個人的には、これは、まったく適切なことだと思うんです。
イメージって想像でしょ。イメージは実際にここにあるリアルな何かではなくて、思考の産物です。だから、イメージを持っている限り、実際にいまここにある本当のわたしから離れて行っちゃうからね。
説明も同じですよね。説明すればするほど、読んだ人は、実際にいまここにあるもの(本当のわたし)に意識が向かず、説明の内容=概念に意識が向いてしまうんです。
認識システムの説明の表の中でも、エッセンスと聖なる理念と聖なる道は、本当のわたしに関係があるところなんだけれど、あまり細かく説明をしていないのは、概念化を避けるためには、いたしかたないのかもしれないなぁ。わたしはそんな風に感じます。
エッセンス
この人生で個としてのわたしをとおして表現される本性の輝きが、エッセンスです。個としてのあなたのエッセンスが何かは、認識システムがわかればわかります。
なぜなら認識システムってエッセンスの偽物なんですよ。自我がエッセンスをまねしようとしたものなの。だから、エッセンスによって認識システムが決まります。
エッセンスはね、あまり、気にしないほうがいいと思うんです。
まじで強くそう思います。
たとえば、ポイント5を例にとって説明すると、ポイント5の認識システムを持つ人のエッセンスは平穏(Peace)です。ポイント5の主機能の引きこもりも、罠の観察者も平穏を作り出そうとする試みなんです。エッセンスを引き出そうとしたり、磨こうとしたり、高めようとしたり、というのはすべて認識システム(自我)を濃くしていく試みになっちゃうのです。
認識システムに動かされるのが止まると、エッセンスは自然と表に出てきますから。
めっちゃ光っている何かが箱に入っていると思ったらいいかな。エッセンスの光そのものは、弱まったり、強まったりするようなものではなくて、
ただ光ってます。でも、箱に入っているから、わからないだけです。
でも、箱に入っているときだって光が消えているわけじゃないので、箱の隙間から漏れ出たり、透けて見えたりすることは、ありますよ。
(つまり、ほぼほぼ認識システムに動かされて生きている人だって、光は漏れ出ることがあります。)
これは、本書では超さりげなくしか書いてないのですが、
エゴによる条件付けが薄くなっていけばいくほど
自分の認識システムに対応するエッセンス以外のエッセンスも表現されていくんです。
また、ポイント5を例にとると、”おそらく” 平穏のエッセンスが最初に輝きだし、さらに条件付けが薄くなればなるほど、他のエッセンス、たとえば喜び(ポイント4のエッセンス)やら優しさ(ポイント2のエッセンス)も表現されていきます。
わたしはポイント5だから、私のエッセンスは平穏だわ、と考えること自体、条件付けになってしまいますよね。
だから、まじで、あんまり気にしないほうがいいかと.…
認識システムの条件付けが薄くなったときに
かならず、自分のコアの認識システムに対応したエッセンスが感じられるかどうかもわからないと思うのです。
こうしたことすべて、自分で体験して、発見してみてのお楽しみですね!
説明すればするほど、概念が濃くなって、発見の邪魔になるので、ここらへんで!
聖なる理念
聖なる、という言葉が付いているからなんかよさげ!って思うかもしれなけれど、聖なる理念はもろ刃の剣です。
もろ刃なのは、認識システムにとっても認識システムの機能の一部として大切にしたいと感じる何かであると同時に、認識システムを越えていきたいという本性からの呼び声に耳を傾けるためのサポートになるものだからです。
たとえば、ポイント6であれば聖なる理念は信頼です。ポイント6の認識システムを持つ人であれば、信頼できるかどうか、そして自分が信頼されうる人であるかどうかは、とても大切なものに感じます。ポイント6はわからないものは怖いし、自分の中に確信のようなものが感じられないので、つねに何かの枠組みを与えて欲しいと願っています。そこで、外側にある道徳観や信条、思想、哲学に沿って信頼というのはこうゆうことだ妄信します。
これだと、観念を信頼して、実際に起きているリアルなこととは離れていきます。
一方、ポイント6の認識システムを越えるサポートとなる信頼というのは、何にも保障されていなくても、怖くても、何もわからないまま、起こることをただそのまま体験する、といった種類の信頼。
これ、おそらく、自分を信頼するっていう言葉になるんだけれど、「自分を信頼したら、宇宙がサポートしてくれて、いい方向に向かう」と思いつつ自分を信頼するのは、認識システムによる観念の信頼だからね。なかなか微妙ですね.…
聖なる道
エニアグラムを使って、どうやって覚醒するんですか?って聞かれると、私はちょっと困ります。
”わたしの知るところ”という、ほんのちっぽけな範囲ですが、
こうこうこうすれば覚醒できる、といった手法はありません。
瞑想するとか、何かのムーブメントをするとか、何かを唱えるとか、そうゆうのはないのよ。
汚れを作るのは、認識システムの動きです。
自分の認識システムについて知っていくと(そのための本だ!)、
いままでは無意識&自動的に従っていた認識システムの動きだったものが、動きが起きそうなその瞬間に、
あるいは、起きつつあるときに、
あっ!って気づくようになります。
そのときに、その動きに流されないでいるときの感覚のようなものを教えてくれるのが聖なる道です。
たとえば、ポイント7でだったら、今、この瞬間のリアルにとどまることが嫌なんです。痛みを感じてしまうかもしれないからです。そこで、次から次と楽しそうなことに思考を巡らし、体験し、未来に突き進む動きをします。その動きが起きそうになったら、痛みを感じてしまいそうだろうが、恐れがやってこようが、楽しいことや、こうしたらいいかも、なんてことに意識を向けずのをやめて、そのままでいる。そうするのがポイント7の聖なる道の節制です。
たぶんね、
「そうかー、節制すれば、認識システムを越えて覚醒するのかー!
よし、節制しようではないか!」
なんていうのは、未来に突き進む認識システムの動きっぽいですね(笑)
ここら辺がムズイよね。
実際は、この道を行けという明確な道がないんだから、
聖なる未知のほうがふさわしい気がしないでもないわ。
ちょっと付けたし
認識システムがエッセンスを覆い隠すとか、認識システムが汚れだ、
って書いていますが、認識システムにかなり自動的に流されているなぁと
思う人だって、ところどころで、エッセンスは光っているし、本性へ向かうような聖なる理念になっていたり、聖なる道の上にいる、ってことは、ありありです。
ただ、そのときににはごく自然にやっていて、自分(マインド、認識システム)では気がつかないんです。それがナチュラルな素の動き。
自分のことを振り返るときには、認識システムの視点で振り返るので、エッセンスも聖なる理念も聖なる道も、できていないし、それどころか、よくわからない、ってなっちゃいます。
だから、やっぱり、
なんですよね。
というわけで、『自由へのエニアグラム』では、一認識システムについてめっちゃ詳細に説明してあるのです。
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