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土台ができるという事

私はとてつもなく葛藤の多い人間でした。
土台が居心地良いものになった時、私は他者を認めることができました。
理想があって、現実が理想に程遠いと思えてしまう時、葛藤が起こります。
その差が大きければ大きいほど、葛藤も大きいでしょう。

認めてもらえない
羨ましい
自信が持てない
孤独

色んな所に興味が湧いたり、こうじゃないか、ああじゃないかと迷ったり。
私がよく思っていたことは
なぜみんな楽しく思えているのに、私はこれを楽しいと思えないんだろう。。
ということでした。
頑張ろうと思っても続かない。
違うなってなってしまう。

特に私の場合、制限・限界が見えると無理になってしまうのです。
例えば、ある団体に属すとそれが一番だと思えないことが苦痛になるのです。
自由というものがなくなたり、固定観念になることが嫌になって。
受け入れなければと思っても受け入れられない。
何か違う考えがあると指摘したくなる。
対立が生まれてしまうのです。

ただ、私は学ぶということに関して、素直になれるところが欲しかった。
一番と思える所に居たかった。
やはり、属するということは重要だと思っていました。
何にでも素直になれる人が羨ましいな。といつも思っていました。

でもそういう所って、自然と縁があるし、出会った瞬間自分の魂が勝手に動くんですよね。
思考はあれこれ考えるんだけど、魂はドストレートだといつも感じます。
心が動くし、やめられないし、楽しいし、大好きだし、素直になれるし
何より、才能が発揮される。
思い込みでもいいから、何かに出会った瞬間に過去世を思い出したこのような感覚になる。

私はそれが合気道とアムウェイだった。
その中でもまた系統というものが必要で、その中でもまたこの人という所に巡るのだと思う。
それも必要なタイミングで。
ここで深く話すとごちゃごちゃになるので、それぞれテーマに照らし合わせて書いてゆこうと思う。

しかしながら、私が心動いた小さくても継続しているそれらの全てすら私の人生の目的ではなく、自分の魂の役割・目的のための手段にしか過ぎないと思っている。
私は、自分の魂の目的を果たすための手段を色々と手に入れているのだと思える。
自分の魂の目的が何なのか、人生を歩むにつれわかってきたような気がする。
しかし、わからないというのが答えだ。
視野が広がれば広がるほど、断定というのはできなくなる。

多分土台ができるとは、自分の葛藤を乗り越え、確信を得て、悩みがなくなる事だと思う。

その時に、必要なものが残り、不必要なものは削ぎ落とされていく。




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