見出し画像

milestones 2 精神病棟では鼻が曲がった

新潟の病院に就職するため、1983年の9月から年末まで、とある関東の病院で実習をさせてもらった。病棟の入口には鍵がかかり、窓には鉄格子がはまっている、いわゆる精神病院だ。ご挨拶にうかがった理事長先生は、お年を召していた。

「本当に気の毒な、可哀想な人たちなので、尽くしてあげてください」

その訓示には、どこか違和感があった。病棟が古くて汚いのはまだしも、鼻が曲がるような臭いに衝撃を受けていたからだ。「保護室」はまさに監獄の独房だった。あんなところで暮らしている患者さんたちが、それこそ気の毒だった。オーダー・メイドのスーツと鼈甲の眼鏡を身に着けて、立派な理事長室に収まっている人が、果たして彼らに尽くしているのだろうか。そんな金があるんだったら……とムッとしたのは、自分が若かったからだろう。

「女子病棟に入るときには、気をつけた方が良いよ」

そう言いながら、ソーシャルワーカーが鍵を渡してくれた。「若いオトコが入って来た!」と取り囲まれて、あそこをむんずと握ろうとする女がいるとかいないとか脅された。さすがに白衣を着ていればそんな目にも遭わないだろうと思いつつ、鍵を回して病棟に入った。さっそく何人かに囲まれたけど、彼女たちの質問はごく常識的だった。名前は?、どこから来たの?、何をするの?、要するに自己紹介をしてくれということだ。男子病棟の方は、人に関心がないから寄ってこないという感じだった。女性の方が人と関係を作ろうとするのは、鍵と鉄格子の精神病院でも同じだ。「あそこを握る女」は、からかわれただけだった。

入院している人の大半は、統合失調症を病んでいた。彼らが「いつ何をしでかすか分からない」というのは偏見で、薬さえ服んでいれば妄想や幻聴などの症状は落ち着いている。でも家族も病院も世間も、そしてご本人も「入院」に依存していた。でも患者をいつまでも入院させて固定財産のようにしてしまうのは、人権的にも医療経済的にも好ましくない。この病院でもソーシャルワーカーがリーダーとなって、社会復帰活動が始まっていた。でもグループホームを開こうとすると、医者は「火事でも出したらどうするんだ」と心配をする。患者も職員も、丸ごと偏見を向けられているのが精神病院なのだった。

武見太郎を知る人も、少なくなったと思う。1957年から25年にわたって日本医師会長を務め、政界にも深く食い込んでいた。物議をかもすものだから、テレビのニュースで「タケミタロウ」と連呼されていた。音の響きが妙に印象に残って、子どもでも憶えてしまうのだった。その彼が「精神医療は牧畜業だ」と放言したらしい。汚いところにギュウ詰めにして飯を食わせるだけでは、牧畜業と変わらないのではないか、という意味だろう。精神科医の側からは、辞任を求めるとかのアクションがなかったらしい。強く反発したらヤブ蛇になるのが落ちで、叩かれたらホコリが出てくるに決まっている。「そう言われても仕方ないよな」と自嘲するか、「あいつだったらそんなことも言うだろうさ」とタケミタロウのせいにするか、そんなところだったのだろう。

精神医学の本も、読み始めていた。呉秀三 (1) が「座敷牢」の調査を行い、「わが邦に十何万の精神病者は実にこの病やまいを受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重かさぬるものというべし」と記していたのを知った。座敷牢はなくなっても、「この邦に生まれたるの不幸」はある。自分はそういうところに、就職を決めてしまっていたのだった。患者さんが「不幸を重ぬる」の片棒を担ぐことになるのか。それとも彼らが安らぎを感じられるように、自分にできることがあるのか。

関東の病院でも臨床心理士の人はいたけれど、心理テストの他にどんな仕事をされていたのかがよく分からなかった。入院患者に話を聴いて回ったけれど、カウンセリングの対象になるような人がいるのかどうか、それも見当がつかなかった。そしてこの道に入る、生涯をかける覚悟が自分にあるかどうか分からなかった。結論は「まず三年やってみるか」だった。

精神病院を辞めて三十年近く経つが、この先どうなるんだろうとは思う。いま日本には世界の精神病床の2割があるとされているので、呉が記した「この邦に生まれたるの不幸」は令和の世になっても変わっていない。いまや統合失調症は、外来で治療するのが常識になっているので、新規の入院は激減しているだろう。厚労省は精神科のベッド削減に躍起になっていて、常に満床近くをキープしないと採算が合わないようにしている。それが悪い方に働いて、必要もない人を入院させる精神病院がある。この先はとめどなく増える、認知症の人たちでベッドが埋まるだろう。自分もそこに収まるかもしれないと思うと、他人ごとではない。認知症の人たちを世話するのにふさわしいのは施設であって、精神病院ではないはずだ。

(1) 呉 秀三(1865~1932) ドイツに留学し、クレペリンなどについて精神医学を学んだ。帝国医科大学教授と巣鴨病院院長を兼任、日本精神医学の父とされる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?