「何で書こうと思ったのか」

しばらく書いていなかった。

毎日書こう、いや、書こうと思った時でいいや、と逡巡していたが、やっぱり毎日書いた方が良いような気がしてきた。
なぜなら、書こうと思う気持ちというのは、いくらでも疑えるし、簡単に否定できてしまうからだ。

「いや、こんなこと、わざわざ書かなくても」
「書くほどのことでもないのでは」
「本当にこれについて書きたいと思ったのか」
「書く必要があることなのか」
「何で書こうと思ったのか」

こんな問いの言葉が浮かんでくる。
書きたいと思う度に、毎回、これらの問いに答えないと書けないというのは、大変だ。そりゃあ書くことから遠のいていくだろう。
だったら、もう毎日書くと決めてしまった方が楽だ。

頭の中にこういう言葉が降り注ぐとき、それを外に出さずに自らの内に留めておくと、それらの問いを対象化することができない。
ネガティヴな言葉を言ってくるもう一人の自分がいる、というほどに対象化できたら反論もできよう。しかし、そう明確にはなっていない。

すると、「何で書こうと思ったのか」という問いが、問いではなく書くことを阻害する言葉として、いつまでも滞留し続けることになる。

だが、「何で書こうと思ったのか」と問うこと自体が悪いわけではない。
むしろそれは、考え続けて然るべきことだ。

それに、そもそもの話、べつに私が書かなくても、すでに小説はあるわけで、そのうえで、いったい私は何を書けばいいのかという疑問もわいてくる(こういう疑問とか“ためらい”はとても大事で、そこをその人なりにクリアしないと、小説を書きつづけていくことはできないと思う)

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』

とりあえず、毎日書く。
そのうえで、その問いは問いとして、考えていくのが良さそうだ。
まず書かないことには、まともに問うこともできない。

私は屋根裏で小説を書くとき、人によまれて、オモチャになればよいとすらも、考えていなかった。私はいつも退屈だった。砂をかむように、虚しいばかり。いったい俺は何者だろう。なんのために生きているのだろう、そういう自問は、もう問いの言葉ではない。自問自体が私の本性で、私の骨で、それが、私という人間だった。

坂口安吾『私は誰?』

書き始めた当初は毎日書こうと思って、書こうと思った時に書けばいいという気になり、今はまた毎日書こうと思いなおしている。

ふらふらしている。が、このふらふらが私という人間のあり方なのだろう。
そういうことにして、このへんで今日はおしまい。

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