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『D機関情報』 西村京太郎が第二次世界大戦を舞台にして書いた小説

一時期、西村京太郎を読み漁っていたことがある。仕事が忙しい時の息抜きにちょうどよかった。 週末に5〜6冊を古本屋で買い込み仕事の合間に読む。購入した作品が重複することがほとんどなかったのには、我ながら呆れるというか感嘆するというか。一気に読んだのがよかったのかもしれない。トラベルミステリーシリーズはそのどれもがとにかくよく似ていて、というより主要登場人物がほとんど同じなので、時間を空けて読むとおそらくは読んだのか読んでいないのか判断は難しくなっていたろうと思われる。

西村京太郎と言えば、今ではトラベルミステリーや十津川警部が有名だが、最初からトラベルミステリーを書いていたわけではない。特に初期の作品には興味深いものが少なからずある。明智小五郎、ポアロ、メグレ警部などの名探偵を勢揃いさせた『名探偵シリーズ』や、美男の左文字進を探偵に据えたシリーズ、消えたタンカーや消えた巨人軍などの消失ものなどは読み応えがある。

本作の『D機関情報』はその中でも特別に異色である。西村京太郎の第三作目にあたる。舞台は1944年、第二次世界大戦。私にとっては一番好きな西村京太郎作品である。そして著者西村京太郎も自選ベスト1に挙げているそうだ。

紙の本は少しずつ処分していて、西村京太郎作品もかなり処分したが本作だけは手元に残しておきたかった。残しておきたかったのだが。

何故かこの一冊だけが見当たらない。残しておきたい一冊がないとは何事ぞ。と言ってもないものはないのだから始まらない。それが何年前だったか。

ところが。

先日ネットの「honto」を検索しているとあったんである。『D機関情報』が。しかも69%OFF の ¥298-!  これは買わずばなるまい。購入が7月7日。早速読み始めて、読了が7月10日。4日で完読となった。

以下、ネタバレを含むかもしれない。ネタバレを好まない方はここで引き返えしていただきたく。



第二次世界大戦の和平工作

本作は一般にスパイ小説と称されている。確かにスパイは何人も出てくる。だが、西村京太郎は本当にスパイ小説を描きたかったんであろうか。

これは一人の日本人青年将校が和平交渉に腐心する物語である。1944年は終戦の年の前年にあたる。終戦の一年半前から一年前にかけての話になる。その間に和平交渉を成立させようとした。結論は見えている。歴史を知っているのだから。だが、それでも頁を繰る手は止まらない。なんとか和平交渉が成り立ってほしいと願いながらジリジリする。

終戦の一年前であればあのような敗戦はなかったかもしれない。そもそも、日本人、アメリカ人によらずその後の一年間の膨大な戦死者を出さずにすんだかもしれない。西村京太郎がこの作品を描くきっかけになった思いはここにあるのではないか。一年前に和平交渉できていればどうだったろう。当時、その時に和平交渉を考えた者はいなかっただろうか。いや、もしかしたら人知れずいたかもしれない。実際に交渉に動いたかもしれない。そして「もしかしたらいたかもしれないそういう日本人」を描こうとしたのではないか。そう思えてならない。

以下、『D機関情報』から引用しつつ歴史や地理を繙いてみる。


1944年3月19日

 一九四四年(昭和十九年)三月十九日。日曜日。
 この日は、昨夜半から降り出した雪が、東京の街を、白一色に塗り潰していた。三月には珍しい大雪で、昼近くには止んだが、積雪は十五センチに近い。

『D機関情報』

気象庁のデータによると確かにこの日の東京は雪だったようである。

ふと思う。西村京太郎は何をもとにこの日の東京が雪であるとわかったのだろう。今でこそネットで検索できるが、作品発表は1966年である。ネットどころか、電話でさえもが一人一台どころか一家に一台が普及していたかどうかという頃である。調べるとすればおそらくは図書館でしかなかったろうと思われる。あるいは日記にでも記録していただろうか。


1944年1月31日

一月三十一日に、アメリカ海兵隊二個師団が、マーシャル群島クエゼリン島に上陸し、二月二十五日に陥落した。その結果、戦線が一挙に、三二六マイルも日本本土に近づいた。

『D機関情報』

Wikipediaで「1944年1月31日」を検索してみた。

1月31日- 米軍がマーシャル諸島クェゼリン環礁に上陸

Wikipedia

確かに米軍がクェゼリン環礁に上陸している。2月25日というのは大本営が発表した日だ。既に半年前のミッドウェー海戦で負け、続くガダルカナル島も失っている。1月31日に米軍が上陸し1ヶ月も経ずに日本軍は壊滅している。

ちなみに「マーシャル諸島クェゼリン環礁」はここに位置する。

マーシャル諸島クェゼリン環礁

第一次世界大戦以来、マーシャル諸島を委任統治してきたらしい。第二次世界大戦で進軍した場所ではなかったようだ。


軍令部総長

軍令部総長は、海軍大臣の島田繁太郎大将が、兼任していた。

『D機関情報』

こちらもWikipediaを参照すると、1944年3月当時の軍令部総長は島田繁太郎になっている。

主人公はこの島田繁太郎軍令部総長から直接スイス行きを命じられている。軍令部総長直々に指令するものなのだろうか。


伊二〇六潜水艦

二十一日の午後三時伊二〇六潜水艦が、を出港する。行先はドイツだ。君は、それに乗る。
〈中略〉
関谷を乗せた伊二〇六潜は日本を離れた。ドイツまで、約一万五千マイル。昭南港(シンガポール)以西は、全て敵側の勢力範囲である。

『D機関情報』

主人公は潜水艦でドイツに向かう。伊二〇六潜水艦が、1944年3月21日に日本の呉を出港。

そういうことが本当にあったのだろうか。
伊二〇六潜水艦は存在したのか。
これか。

と思ったが、工事中止になっていた。そもそも起工が1944年10月27日となっていて、それだと物語が終わってしまう。とはいうものの、下記のリストを眺めていてもそれらしいものが、ない。

伊二〇六潜水艦とは架空の潜水艦なのか。

そもそも、日本からドイツへと、潜水艦とはいえ航行可能なのか。と思って調べてみたら(ネットを検索してみたら)大戦中、遣独潜水艦作戦なるものがあったらしい。日本―ドイツ間の、物資人員情報輸送が目的のようである。

これを見ると、全部で5回の遣独潜水艦があった。ただし、往復共に成功したのはたったの1回である。残りは往路もしくは復路で沈没している。

第一次:1942年8月6日、フランス・ロリアン入港、復路自軍機雷で沈没。
第二次:1943年8月31日、フランス・ブレスト入港、復路帰国成功。
第三次:1943年11月13日、往路マラッカ海峡で撃沈。
第四次:1944年3月11日、フランス・ロリアン入港、復路撃沈。
第五次:1944年6月24日、往路大西洋にて沈没。

伊二〇六潜水艦は、時期的には第四次と第五次の間にあたる。遣独潜水艦でないとしたら、それ以外にも日本からドイツに向かう潜水艦はあるだろうか。どうにも無理に思える。ドイツまで潜水艦で二ヶ月もかかる。加えて戦時中である。『D機関情報』にもある通りシンガポールを抜けると「全て敵側の勢力範囲である」。「遣独潜水艦作戦」と銘打った作戦とは別にドイツに向けて出港した潜水艦があったというのは考えにくい。だとすると、伊二〇六潜水艦は架空のものということになるのか。実在の潜水艦の方が臨場感が増すかとも思ったが史実を忠実に追うのも今と違いネットのない時代においては難しかったかもしれない。


ドイツ、キール

ドイツの軍港キールに到着したのは、日本を出発してから二ヵ月目の五月二十一日である。

『D機関情報』

ドイツの軍港キールはどこにあるのだろう。
と思って検索したらここであった。
赤い点がキールである。

赤い点がキール

なんともすごいところにある。
日本を出港した潜水艦はインド洋を抜けアフリカ東海岸を南下し喜望峰を回ってアフリカ西海岸を北上した。するとこの地図の左側から入ってロンドン―パリ間の海峡を抜け、輪島半島に似たデンマークを回り込んでようやく軍港キールに達するのか。それは、なんとも大変な。ルートの長さのみならず、敵陣の中をくぐり抜けるような航路である。作品中には『スペイン沿岸で、ドイツ潜水艦に会合、その後の航路を教えられて、キールに向かう。』とある。比較的安全な航路でもあったのか。実際の遣独潜水艦はフランスのブレストかロリアンに入港しており(上画像黄色い点)、おそらくこの時期(ドイツがフランスを占領していた頃)にドイツ国内に直接潜水艦を入れることはなかったような気もする。


爆撃

昨日の爆撃で、ベルリンに通じるアウトバーンが数ヵ所にわたって破壊された

『D機関情報』

大使館から迎えにきた者がそう言う。『昨日』というと『五月二十日』ということか。この日に実際に爆撃があったのか。キールからベルリンの間だ。だがしかし、これはいくら調べてもわからなかった。ドイツは400回以上にわたって空襲を受けたらしいが、その詳細がほとんど出てこない。ドイツ自身が受けた空襲について語ることは、ドイツ国内では禁忌であったようなのである。

最近のパレスチナとイスラエルの問題にしてもそうだ。ドイツはひたすらイスラエルを味方する。ドイツはただただナチスによる犯罪の贖罪だけに努めてきたということか。


シャフハウゼンの悲劇

この夜のアメリカ空軍の誤爆事件は、シャフハウゼンの悲劇として、知られている。

『D機関情報』

主人公が巻き込まれることになった爆撃である。スイスのシャフハウゼンが誤爆されたのは本当にあったようである。但し日付が違う。『D機関情報』では5月23日。だが実際の日付は1944年4月1日だ。更に被害規模も少し違うようだ。『D機関情報』に書かれている規模の方が大きい。

この記事によるとスイスへの誤爆はこのシャフハウゼン以外にも少なくなかったようである。シャフハウゼンの悲劇以降、スイスの人々は屋根に白十字(スイス国旗と同じ)を書いたが効果はなかった。米軍兵士がスイスの国旗を知らなかったためだそうだ。今ほど国際化も進んでいない時代ということがよくわかる。


スイス、ベルン駅

関谷を乗せた列車が、ベルン駅に着いたとき、人口十五万の町は、雨に煙っていた。 霧のような雨の中を、古びた市内電車が、ごとごとと音を立てて走っている。駅前の時計塔も、噴水も、妙に古めかしく、関谷の眼には、陰欝な景色に見えた。アイガーユングフラウなどのアルプス連峰も、雨の中に霞んでしまっていた。

『D機関情報』

スイスのベルンを検索してみると次のようなものが見つかった。

時計塔も噴水もまだあるようである。噴水は通りのいたるところにあるらしい。時計塔はかなりの大きさで毎時に時を刻む様子は観光名所のようだ。アイガーやユングフラウなどのアルプス連峰が望めるのかどうかはわからなかった。ストリートビューでウロウロできればよかったのだが、駅周辺では難しい。


ベルン、日本公使館

関谷は、中央郵便局の前で、タクシーを拾った。真直ぐ、日本公使館へ行く積りだったが、途中で、ドイツ公使館へ寄ることを考えた。
〈中略〉
やたらに噴水のある狭い道を、タクシーはのろのろと走り、鍵十字のひるがえる建物の前で止った。
〈中略〉
ドイツ公使館を出た関谷は、日本公使館まで、雨の中を歩いた。

『D機関情報』

スイス、ベルンの航空写真である。

スイス、ベルン

左下の赤い丸がベルンの駅
黄色い丸が郵便局
左上の緑の丸が日本大使館

ベルンの駅から右側に向かって旧市街地がひろがっているようである。赤いツリーのポイント表示が噴水で、ベルン旧市街地にいくつもあるようだ。『やたらに噴水のある狭い道』というのはこの旧市街地のことかと思われる。とすると駅から右側の方向にタクシーは走って行ったのか。ドイツ大使館はそちらの方向にあるのか。残念ながらドイツ大使館の位置まではわからなかった。そもそも、日本大使館も含めて戦中当時と同じ場所にあるのかどうかもわからないのだが。

スイスの日本大使館の沿革は次のようになっていた(Wikipedia)。

  • 1879年、在フランス日本帝国公使館が在スイス日本帝国公使館との兼轄を開始

  • 1916年、ベルンに在スイス日本帝国公使館開設

  • 1945年8月15日、敗戦によりスイスとの国交凍結、ベルンの在スイス日本帝国公使館閉鎖

  • 1952年4月12日、在スイス日本国公使館設置

  • 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効、スイスとの外交関係再開

  • 1955年7月1日、ベルンの公使館が在スイス日本国大使館に昇格

当然だが、敗戦からしばらくはスイスに大使館はなかった。戦中の公使館が今の大使館と同じ位置だったのかどうかはわからない(とにかく調べても調べてもわからない)。

スイス、ベルンについては他にも記載がある。

コルンハウス通りに、アドリアンというレストランがある。美味いスイス料理を喰わせる店だ。
〈中略〉
関谷は、指定されたコルンハウス通りまで、タクシーを走らせた。降りると、眼の前に、奇妙な噴水が見えた。食人鬼というのか、赤ん坊を、むしゃむしゃ食べている男の銅像だった。

『D機関情報』

コルンハウス通りというのは下の航空写真の紫の部分だ。

ベルン、旧市街地

『赤ん坊を、むしゃむしゃ食べている男の銅像』というのは今でもあって、紫の線の下の方に位置する。

それがこちらである。リンク先の写真を手繰ると『赤ん坊を、むしゃむしゃ食べている男の銅像』もある。

さすがに「アドリアン」なるレストランはなかった。マクドナルドならあるんだが。


太平洋戦争の戦力分析

石 炭   14対1
石 油   956対1
鉄     26対1
アルミ   7対1

『D機関情報』

これは『D機関情報』に記載されたアメリカと日本の戦力差である。

下記のリファレンスには次のようにある。

第二次世界大戦の間、アメリカは日本の一一倍の石炭、二二二倍の石油を産出し、一三倍の鋼鉄、四〇倍の砲弾を生産したのであった。

『リファレンス事例詳細』

このリファレンスの数値より『D機関情報』の数値の方が日米差は遥かに大きい。リファレンスの方は下記からの引用である。

三宅, 正樹 , 庄司, 潤一郎 , 石津, 朋之 , 山本, 文史.
総力戦の時代.
中央公論新社, 2013. (検証太平洋戦争とその戦略)

とは言うものの、どちらにしても太刀打つのも困難な差ではある。


1944年6月4日連合軍ローマ入城、6月6日ノルマンディー作戦開始

この日、連合軍は、ローマに入城した。一九四四年(昭和十九年)六月四日である。
〈中略〉
ノルマンディー上陸に使用された兵力は、次のように尨大なものだという。
兵力=英米仏百七十万(八十個師)
車輛=三十六万五千台
飛行機=一万一千機
艦船=四千隻
舟艇=八万隻

『D機関情報』

1944年6月4日。連合軍がローマを解放する。翌々日の6月6日はノルマンディー作戦が開始。ノルマンディー作戦は確かに史上最大の作戦と称されるがWikipediaでは6月6日での戦力は156,000、7月24日のパリ解放までが1,332,000となっていて、さすがに兵力170万は大きすぎるかもしれない。どちらにしても想像し難い規模ではあるが。Wikipediaによると、上陸作戦のためにイギリス国内に駐留したアメリカ兵は約150万人。アメリカ軍だけで4,500人の料理人と50,000人以上の食事担当の要員が従事、配給を待つ兵士の列は毎食ごとに1㎞にもなったという。なんというか、とにかくとてつもない規模だ。ちなみに、アメリカは同時に太平洋上で日本軍も相手にしていたわけであるが、ヨーロッパ戦線が忙しくて太平洋がおろそかになるなどということはなく、新鋭戦艦は太平洋にまわされていたらしい。


米軍、サイパン上陸開始

サイパンが陥落し、ここに飛行場が建設されれば、日本本土が、アメリカ長距離爆撃機の空襲にさらされることになるからである。それは、匕首を、胸元に突きつけられるに等しかった。

『D機関情報』

サイパン島の位置である。

サイパン島

サイパンとは、こんなに近かったのか。
もっと赤道よりかと思っていた。

サイパンの戦いは、1944年6月15日 – 1944年7月9日。サイパン上陸後のアメリカの対応は速かった。上陸3日後の6月18日にはイズリー飛行場確保、滑走路上の600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て6月22日には第19戦闘機部隊を出撃させている。飛行場の長さ・幅を拡張し、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した。日本本土の空襲に向かう。


7月18日、東条内閣総辞職

「東条内閣が、総辞職しました」

『D機関情報』

サイパンが陥落し、東條英機が総辞職する。
東條英機に対しては暗殺計画もあったようだ。
しかもいくつも。

サイパン陥落の責任をとっての辞職となっているが、東條英機自身は続投する意思であったらしい。辞職を決めたのは昭和天皇からの信をなくしたことであったようで、それ以外は検討に値しなかったのかもしれない。重臣の大半は和平工作に向かっていく。


Z報告

現在の時点で、アメリカ政府が、日本をどう評価しているかということだ。これは、Z報告と呼ばれているものだが、君が、和平交渉をする上の参考になるだろう。

『D機関情報』

この「Z報告」についてもネット上を探してみたのだが、見つからなかった。作品中でその内容についても細かく書いている。

曰く、「大本営も敗北を認めている」
曰く、「陸海軍司令官の間に意見の相違と紛争が見られる」
等々。

集めた情報を元にしての西村京太郎の創作なのだろうか。


公使館付武官

作品の主人公はスイス駐在武官としてヨーロッパに向かう。駐在武官について調べていたら興味深いものを見つけた。

我が国の戦前の駐在武官制度 ‐ 防衛研究所

https://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j17_1_6.pdf

その中に次のような文がある。

在外大・公使館付武官の軍における影響力を考えた場合、陸・海軍を問わず、それは決して大きくない。その理由として、次のようなことが考えられる。
・在外大・公使館付武官のほとんどが佐官級の中堅クラスであったこと
情報が軽視される傾向にあったこと
同盟国以外の諸外国に対して、時として極端な猜疑⼼があったこと
・在外大・公使館付武官に限らず、外国駐在勤務に対して、箔づけ、遊学、閑職等、否定的なイメージがあったこと
〈中略〉
いかに公正で確度の高い情報を送ろうとも、中央には⾒向きもされなかったどころか、かえって反発を買ったという。

『我が国の戦前の駐在武官制度』

『公使館付武官のほとんどが佐官級の中堅クラスであった』とあるが、『D機関情報』の主人公関谷も階級は中佐である。米国のD機関からの和平交渉に関する関谷の提言に対し東京の返事は取り付く島もなかった。関谷がどれほど言を尽くしても一顧だにされなかった。関谷の言葉は軽視されたということか。あるいはD機関に対する猜疑心もあったか。

サイパン陥落により本土空襲が想定された状況で、全ての可能性にあたるべきではないか。軽視している場合でもないし、猜疑心に苦慮している場合でもない。最悪の事態を如何にして避け得るか。それが最優先課題であったはずだ。ましてや和平交渉など最も繊細さを要する。相手と対峙して初めてかなうのではないか。にも関わらず会うことを検討することさえしないとは。

あくまで架空の話であるのでむきになっても仕方がないが、なんだかこういうようなことが、この物語のようなことが、実際にあったのではないかと思えてならない。あったとしても公にはしないだろう。敗戦を迎えてもなお、無価値であったと考えていたかもしれない。


西村京太郎と戦争

終戦時、西村京太郎はまだ15歳である。戦時の状況詳細など知るべくもなかったろう。であるならば、本書執筆の前に調査は必須であったかと思われる。もしかしたら図書館に浸って情報収集に努めたのかもしれない。地理や日付に多少の相違は見られるものの大要としては事実に近い。そのことがこの作品の魅力を後押ししているのかもしれない。

西村京太郎は晩年に戦争に関するノンフィクションも書いている。

『十五歳の戦争』は西村京太郎の自伝である。西村京太郎が陸軍幼年学校にいたとは知らなかった。卒業前に終戦を迎える。

2017年の出版。西村京太郎、87歳。
その年齢に達して書こうと思ったのは何故だったろう。

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