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雑記|信心って必要かもしれない。

色々考えていると眠れないので、デトックスも兼ねて、最近の出来事を書いてみます。


先週、祖父が亡くなりました。92歳という長い一生でした。
何度も病気をしては復活してきたので、今回の入院もすぐ退院できるだろうと踏んでいましたが、残念ながらそれは思い違いだったようです。

3月の半ばに、医者からは「持ってあと1週間」と言われ、それから約1ヶ月。さすが簡単にはくたばらない、骨太な祖父だと安心した矢先のことでした。

いわゆる余命宣告というものを身内が受けたのは、今回が初めて。思ったよりも動揺してしまうものです。「もう会えないかもしれない」とか「あれが最後だったのかもしれない」と思うと、どうもそわそわしてしまう。

結局自分ができることといえば、祈ることくらい。神社でお守りを買って渡すことくらいしかできないのです。
自分は無力だと実感しました。と同時に、宗教や信心が必要な理由がわかったような気がしました。
医者でもなんでもない自分ができることといえば、ただ祈ることのみ。
その「祈る」という行為を、人は必要としているのだと思います。

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亡くなった祖父は今、どこにいるのでしょうか?

四十九日の間、仏教では故人は七日ごとに生前の行いをもとに審判を受ける旅に出るそうです。昨日で初七日、ちょうど三途の川を渡っていた頃かもしれない。満月が見守ってくれているような気がしました。

92年もの長い時間を生きてきた体は、1時間半ほどでなくなってしまいました。実にあっけない。でも、祖父はきっとどこかにいると思いたい。

今までは、心身二元論をあまり重要だとは思っていませんでしたが、今は「肉体」と「心」は別であると信じています。
というか、そうであってほしいという願いに変わったような気がします。

結局、宗教や信心というものは、人間の「願い」なのかもしれないなあ、と。

子供の頃に一緒にじゃがいも掘りをしたり、あんぱんが好きだったり、ポケットティッシュを箱いっぱいにくれたり、従姉妹の結婚式で酔っ払って赤羽駅で遭難したりした、優しい祖父のことを思い出し、四十九日の短い旅を応援しようと思います。


ではまた。

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