無力な人間が自由を手にするたったひとつの方法/同士少女よ、敵を撃て

 2022年2月24日、世界中に激震が走った。ロシアが隣国ウクライナへの軍事侵攻を開始したのだ。ほんの4日前に冬季オリンピックが閉会し、約1週間後にはパラリンピックを控える中での開戦だった。ウクライナのNATO加盟をはじめとした親欧米化へのロシアの反発が、主な理由とされている。理由は何であれ、それまで日常を送っていたウクライナ人が突如国を追われたり、母国で戦わざるを得なくなったり、命を奪われたりしている場面はかなりショッキングだった。これまでもあらゆる理由で戦争・紛争が起きてきたが、他国への『侵略』を目的とした戦いを目にしたのは初めてだった。
 これではまるで第二次世界大戦前に逆戻りではないか・・・。そう思っていると、あるニュースが飛び込んできた。第二次世界大戦時の独ソ戦を1人のソ連兵の目線から描いた小説が『本屋大賞』を受賞したという。時期が時期なのだから、このテーマで書けば注目を集めて当然だろうとも思ったが、どうやら話はそういうことではないらしい。まず、その小説が発売されたのは2021年12月で、2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻よりも2か月前であった。そしてもう1つ、私が時事的な話題性だけが理由ではないと思った根拠は、その表紙だ。表紙に描かれているのは黒髪で薄いグリーンの目を持つ少女。おそらくロシア人だろう。それだけならただ美しい少女として終わっていたのだが、彼女には1つおかしな点があった。・・・銃を持っているのだ。まだあどけなさが残る白い肌と大きな目にはおよそ似つかわしくないライフル銃を構え、その澄んだ瞳でスコープを覗き、ただまっすぐに敵へ照準を定めていた。
 一般的に戦場には男性が駆り出されることが多く、『女・子ども』は弱者であり守られるべき存在とされている。そんな中当時のソ連には約2000人の女性狙撃手がいたという。一体なぜ男性に比べて肉体的な力が弱い女性が、それも少女が、戦場で戦うことになったのか。子どもをも兵士にしてしまう戦争とは一体何なのか。今現在も起きている戦争に対し、私たちにできることは何なのか。答えを求めて、私は話題の小説『同士少女よ、敵を撃て(逢坂冬馬)』を読むことにした。

 物語の始まりは1941年までさかのぼる。村人わずか40数人というイワノフスカヤ村で母と狩猟をしながらのどかに暮らしていた主人公セラフィマの日常は、突如壊された。ソ連侵攻を始めていたドイツ軍が「村にパルチザン(反抗勢力)がいる」として突如村人を拘束。女性には暴行を働いた上で村人全員を射殺してしまったのだ。物陰から指導者を射殺しようとした母は、人を撃った経験がなかったためなかなか引き金を引けず、結局イエーガーという名のドイツ軍スナイパーに射殺されてしまった。セラフィマは殺される寸前のところで赤軍に助け出されるも、赤軍の女性兵士イリーナによって大切な家と母の遺体を村もろとも燃やされ、『イエーガー』と『イリーナ』へ強い恨みを抱くようになる。イリーナに用意された居場所、赤軍の女性狙撃兵を育てる『中央女性狙撃兵訓練学校分校』で狙撃兵となり、いずれはイエーガーとイリーナを殺すことがセラフィマの生きる目的となった。セラフィマと同様に家族を失った女性たちとともに、セラフィマは狙撃兵としての道を歩んでいく―。

 私がこの物語を通して感じたことは、『善』と『悪』とは何なのか、『自由』とは何なのかということだ。主人公セラフィマの視点で描かれるこの物語は、セラフィマにとっての『善』と『悪』を軸としてストーリーが展開していく。『悪』は、突如として村を襲撃してきたドイツ兵や、無実の母を撃ち殺したイエーガー、その母と村を焼き払ったイリーナ、そして戦地で女性に暴行を働く男性兵士だ。物語終盤で捕虜となってからの敵兵との駆け引きやイエーガーとの対面、味方による攻撃に合わせた敵地脱出は、沈黙と緊張感からの爆発が伝わり、読んでいてゾクゾクした。イエーガーを出し抜いたほんの一瞬で仇を取った場面は、まさに『悪者』を討ち取る瞬間として爽快だったと言わざるを得ないし、女性に暴行を働こうとしていた幼馴染の兵士ミハイルを撃った場面は、『正義』を貫き通したセラフィマに賞賛を送りたい気持ちだった。
 ・・・だが、果たしてセラフィマは『善』だったのだろうか?そんな疑問を我々読者に抱かせる描写が、この小説では端々に登場する。例えばセラフィマの母を撃ち殺したイエーガーは、普段は他の兵士と距離を置くタイプで、他の兵士が女性へ暴行を働こうとしても一切関わろうとはしなかった。占領地の娘サンドラと恋に落ち、毎日食料を分け与えることもしていた。セラフィマの母を撃った際も、彼女がドイツ兵士を撃とうとしている以上放っておくわけにはいかなかったという、『兵士』としてはある意味理にかなった言い分があった。
 ドイツ人女性に暴行を働こうとしていたミハイルは、元々は誰よりも心優しい青年だった。イワノフスカヤ村を出て兵士になってからも、鉄拳制裁が常態化する軍の中でミハイルだけは絶対に暴力に訴えることはなく、部下から絶大な支持を集めていた。だからこそ、ミハイルに感謝の意を表したい部下の1人がミハイルへ女性を『献上』したのだった。
 では母と村を焼き払ったイリーナは?母と村人を殺され自身も殺される寸前だったセラフィマに、イリーナは「生きたいか、死にたいか」と問いかけた。「死にたい」と答えたセラフィマに対し、「ならば」と目の前でセラフィマの家の品々を壊していった。唯一セラフィマの父と母が写る写真を投げ捨て、母を含めた村人たちを村もろとも焼き払った。そのせいでセラフィマはイリーナへの復讐心に火が付き、狙撃兵になった。言い換えれば、だからこそセラフィマは生きてこられた。「死にたい」と思っていたセラフィマに『生きる意味』ができたのだ。セラフィマが最後にミハイルを射殺した際、イリーナはセラフィマが味方殺しの罪に問われないよう、「敵兵が最後のあがきを見せた」という工作のために死のうとした。セラフィマを焚きつけたのは、そのままでは死んでしまいかねないセラフィマに生きる目的を与えるため。そして狙撃兵として人を殺す人生を与えてしまった償いとして、最初から自分は死ぬつもりでいたのだ。捨てたふりをして隠し持っていたセラフィマの両親の写真を返して。
 一方、主人公であるセラフィマは、理不尽な境遇から凄腕スナイパーへと上り詰め、敵への復讐を遂げた。だが、ドイツ兵にとっては大事な仲間を80人以上殺したれっきとした仇だ。そして彼女もいつからか、敵兵を殺す瞬間に言いようのない興奮を覚えるようになっていた。そんな自分に嫌悪感を抱きながら。
 一体何が『善』で、何が『悪』なのか。物語の中に、そんな葛藤をよく表した一文がある。―—「誰も彼も、正当化の術を身に付けた」。そう、全ては正当化なしでは成り立たなくなっていた。戦争では、生きていくためにみな誰かを殺さなければならない。男性兵士は仲間につまはじきにされないよう、誰かが略奪や暴行を提案したら従わなければならないのだという。兵士らは自分らが犯した罪への罪悪感に押しつぶされないよう、大義名分を作っていくしかない。力を持たない者を犠牲にしながら。兵士を、もしくは男性を責めることは簡単だ。だけど、彼らがそうせざるを得なかった環境について考えずに『悪者』を作ることはできない。
 セラフィマは、村にドイツ軍が攻め込んでこなければモスクワの大学へ入学し、外交官になるための勉強をする予定だった。ドイツ人と銃口を向け合うのではなく、言葉で理解を深め合う未来を描いていた。セラフィマの仲間ヤーナを撃った敵兵ユルゲンは、将来サッカーのドイツ代表選手になりたかった。戦争で外国人を殺すのではなく、サッカーを通して世界中で賞賛され、たくさんの友人を作りたかった。訓練生に成りすまし、反乱分子がいないかどうかセラフィマらを監視していた秘密警察オリガは、女優になりたかった。演技の実力は、スパイ活動ではなく舞台上で発揮される予定だった。だけど、褒めてもらいたかった両親も、親代わりとなって秘密警察で指導してくれたハトゥナも、戦争で死んでしまった。
 誰も彼も、好きでこうなったわけではなかった。だけどイリーナがセラフィマに問うたように、理不尽な世の中で私たちは「生きるか、死ぬか」を選ばなければならない。多くの場合、人は『生きること』を選ぶ。なぜなら、すでに命は始まってしまっているからだ。命を終えることには痛みが伴うし、痛いことは誰でも怖い。望みもしないのに産み落とされ、望みもしない環境を与えられ、それでも生きていかなければならないのだ。

 生きるって何なのだろう?第二次世界大戦が終わってもなお、争いはなくならない。日本では昭和が終わり、平成が終わり、令和に突入している。世界では民間人が宇宙へ行けるようになり、仕事の多くをロボットが担当するようになり、お金は形あるものからデジタルという形のないものへ移行しつつある。それなのに、また新たな戦争が始まってしまった。大きな力を持つほんの一握りの人たちによって。
 ある者は家族を殺され、友を殺され、故郷を失い、夢を奪われる。ある者は病気を患い、ある者は暴力を受け、家族や友人から傷つけられたり、力を手に入れるチャンスを逃したりする。一方で最初からすべてを手に入れているような人だっている。家族に愛され、友に愛され、自分の存在に少しの疑いも持たずに生きられる人だっている。誰にだってそんな人生を生きる権利はあるはずなのだけど、そんな人生を生きられる人はごくわずかだ。だから大半の人々は、力を持つ人々が作ったルールの中で何とか生き抜くしかない。何とか自分の持ち札を良いカードへ替えられないか、あがきながら。家族を村ごと失ったセラフィマが、狙撃兵として敵兵を殺して生き抜いたように。心優しいミハイルが、仲間からつまはじきにされることを恐れて女性への暴行の誘いを断り切れなかったように。・・・人生が平等だなんて、嘘だ。
 ならば、そんな人生を生きることに何の意味があるのだろうか?そもそも運で配られたカードだ。替えるためにあがく必要があるのだろうか?完全に自由な人生なんて、あり得ないのに。・・・きっとそれは、多くの『人間』を殺したという罪悪感に苛まれる兵士自身が、誰よりも疑問に思うことなのだろう。物語の中で、セラフィマの仲間であるシャルロッタは、伝説の女性狙撃兵リュドミラ・パヴリチェンコの講義で、次のような質問を投げかける。「戦後、狙撃手はどのように生きるべき存在でしょうか」—。国を守るためとはいえ、人を殺したということをどう受け止めれば良いのか。戦争という大きな波の中を生き抜くには、そうせざるを得なかった。だけど、人を殺したくて生まれてきた者などいないのだ。シャルロッタの質問に、パヴリチェンコはこう答えた。「誰か愛する人でも見つけろ。それか趣味を持て。生きがいだ。私としては、それを勧める」。―パヴリチェンコは実在の人物で、1人で309人もの敵兵を仕留めたとされている。彼女が本当にこのような発言をしたかは定かではないが、きっと本当にそう思っていたのではないだろうか、と私は思う。
 大義名分なんて、時と場所が変われば簡単に崩れ去ってしまう。それまでは正義だと思っていたことが、180度変わって悪だと見なされるケースは枚挙にいとまがない。戦争とはその最たるものだ。善悪を軸に生きていくことほど、危なっかしいことはない。だけど、人には1つだけ揺るがないものがある。それが、『愛』だ。安っぽい映画の台詞のようだけど、これは事実だと思う。なぜなら、『愛』とは完全に主観的なものであり、かつ人に絶対的な安心感を与えられる唯一の感情だからだ。人は愛のほか、怒りや悲しみ、興奮など様々な感情形態を持つ。だけど、人に安心感を与えるホルモン『オキシトシン』は、信頼できる誰かとの接触やコミュニケーションからしか生まれない。すなわちそこには『愛』が絶対的に必要なのだ。そして、愛の大きさは客観的に測ることができない。唯一自分の感情だけを判断基準にできる。つまり揺るぎないものだと言える。

 私たちはいつも自分よりも大きな存在に振り回され、限られた選択肢の中で生きている。決して全てが思い通りというわけにはいかない。しかし、確実といえるものがほとんどない世の中で、愛だけは誰にも侵すことができない自分だけの安らぎの場所だ。突然始まる戦争に、個々人が抵抗することはほとんどできないかもしれない。だけど、愛を知り、愛を求め続けていれば、何を選択するかは変わってくるのではないだろうか。
 愛を十分知っていれば、人を傷つける選択は避けられるかもしれない。愛を十分知っていれば、人に手を差し伸べる選択ができるかもしれない。愛を知る人が増えれば、人を傷つける負の連鎖に終止符が打てるかもしれない。希望的観測だと言われればそれまでだ。だけど、実際に愛とは人が自分自身を守る唯一の希望であるのだと思う。

 セラフィマは、心より恨んだイリーナが実は誰よりも自分を思ってくれていたことに気付いていた。独ソ戦に勝利した後、セラフィマとイリーナはイワノフスカヤ村を再建して2人で静かに余生を過ごす。互いへの愛と、村の再建。いつかパヴリチェンコが言った、「愛と生きがい」、その双方をセラフィマは手に入れていた。
 私たちが戦争をどう終わらせられるか、理不尽な世の中をどう生き抜けるかは、どれだけ人を愛し人に愛されるかにかかっているのではないだろうか。心が愛で満たされ、人の評価に左右されず安心できたときに、人は初めて確信を持って未来の選択ができるのではないだろうか。1人1人が家族を愛し、友を愛し、そして愛されることが、『幸せ』の第一歩なのだろう。
 きっと愛のない世界では、人は暴力や権力などの『力』で心の穴を埋めようとしてしまう。そうして犠牲になっていくのは、子どもであり女性であり、『力』が弱い者たちだ。そんなことが起きないように、私たちは毎日愛を感じていくことが何よりも必要なのではないだろうか。約80年以上の時を超えて同じ歴史を見せてくれたこの物語を読んで、私はそう思った。
 世界が愛で満たされることを祈りながら、一分一秒大切な人へ惜しみない愛を伝えていきたいと思う。

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