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後見人日記〜仏壇と位牌どうする問題〜

毎年この季節になると一時的に鼻がひどいことになる。花粉?なのか原因不明。薬は飲んでいても鼻水が止まらない日がある。最近は忙しさにかまけて写真を撮っていない気がする。上の写真は直島のもの。社の透明度のある階段が地下まで伸びているアート作品。地下の雰囲気が神秘的で日常から離れられる。

宗教?伝統?

さて、前職ではソーシャルワーカーやケアマネから時折、クライエントの宗教について耳にした。「宗教関係の人がさぁ・・」「あの人、宗教してるから・・」など、決して前向きな声ではない。裏を読めば、「あの人、宗教なんかしてて、なんだか理解できないわ」と聞こえてくる。宗教は日本では市民権を得られていないのは確かだと思う。が、ある程度古い宗教は別らしい。同僚のBさん。宗教というものに懐疑的どころか、まったく認めていないのは日ごろの会話でわかる。が、昼休みになると、「実家の神棚がさ・・水を毎日変えたほうがいいのよ」とか「やっぱり格の上の寺だと、つける戒名も違うのよ。」等、がっぷり宗教の話をしている。しかも、自分が博識だということを誇っているように聞こえるが「自分は無宗教」と言う。ちょっと何いっているのかわからない。Bさんの意識を推測するに、自分がしているものは日本では多数が認める「真実」で、俗にいう「宗教」とは別物という意識のようだ。


どうする?位牌と仏壇

さて、本題。在宅で生活していたDさん。だんだんと自宅が老朽化し、今年の梅雨前に有料老人ホームに入ることに自ら決めた。自宅の管理・処分については、「全部捨ててくれ」と。しかしそれほど経済的にゆとりはない。家屋内は最低限、台所に虫が湧かないように清潔にした。あとは仏壇をなんとかしなくては。このDさん、信仰心はほぼなく、位牌も仏壇ももう捨てればいいと思うと言う。ヘタレ保佐人としては、下手に処分して親族にクレームを入れられるのは避けようと、最低限の供養をすることを提案。一任いただいた。とはいえ、了承してもらった予算は限られる。まずこの人のかかりつけ寺?(なんていうのかわからない)に電話。「処分前には閉眼供養をしますね。だいたい3万円ほどでしょうか」と。それくらいなら予算内と、早速依頼して自宅に来てもらった。私としては信仰というより形式的、儀式的なもののように思える。数分で終了し3万円を支払う。念の為、これで心おきなく仏壇を処分すれば良いのか和尚さんに確認。「そうですよ。魂は抜いたので棚とおんなじです」と。魂が抜けたかどうかはどうでもいい。とにかく3万円で済んだことに感謝。そういえば位牌は?と聞くと、1体で50万円と驚愕な価格。無理なのでたちまちは施設へ持って行くことにした。
さて、あとは処分場に運び込んで終了のはず。いつもの片付け業者に運搬のみを依頼。(まぁまぁでかいので私1人では苦しい)しかし、「仏壇はクリーンセンターでは引き取りませんよ。気持ち悪いから」と。魂とやらは抜いたのに、何故。もう1社に聞いても同じ。他市のクリーンセンターも仏壇は引き取らないらしい。順当な方法としては仏具屋に頼むのが一般的。または自分で破壊して仏壇とわからなければクリア。破壊はできるだろうが、空き家でたった一人で他人の家の仏壇を壊すのかよ・・。流石に気持ちが良くない。めんどくさい。ということで、某有名仏具屋に電話。引き取り可能とのこと。ただし、「供養料と含めて5万円です」と。また供養か。ダブル供養じゃないかと、どこかにクレームを入れたかった。が、ギリギリ予算内。妥協。

引き取り当日。2人で来られ、あっさりとまさに棚の如く分解。中から何故か位牌が1体出てきたが、あっさりと持ち帰る。仏壇がまさに棚扱い。ただし、棚に入っていた遺影は引き取れないとのこと。(位牌はいいのに写真はダメなの?)ということで、ちょっとビビっていたのが嘘のように片付いた。なんだ、やっぱり自分で破壊すればよかったかも。こんな扱いなのに供養とか必要ですかと聞きたくなるほど。

ともあれ、信仰心を「宗教だ」と避け、形式・儀式を当然の信仰と思い込む日本の私たち。信仰なのか形式・儀式なのか。私は被後見人等の信仰は十分に尊重したい。が、ただの形式・儀式的なものを尊重する必要があるのだろうか。わからないままに従うよりも今一度考えた方が良いのではないかと心底思う。

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