贋作・人間失格

 私の右手には契約書が、そして左手には何もなかった。そして、汚れた尻があった。選択肢をふたつに絞るまでに、時間はそうかからなかった。しかし、である。腕時計を覗く。アポイントまでの時間は、あと五分。すぐにでもこの閉鎖空間から脱出し、身だしなみを整えて得意先を訪ねなければならない。額に滲み出た汗は粒となり、やがて頬を伝っていった。

 思えば、ここに来るまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。連絡漏れが生んだ、大量の発注ミス。見積もり書の宛名の間違い。度重なる失敗に、得意先は烈火のごとく怒り狂い、その炎は私のオフィスを巻き込んでゴウゴウとうねりを上げた。「お前では話にならん」と上司に電話を代わるよう言われ、その通りに取り次いでから後のことは、ほとんど覚えていない。覚えているのは、「申し訳ございません、申し訳ございません」と繰り返し許しを乞う上司の声。そして声色とは裏腹に、ギラリと私を睨みつける彼の表情。鬼でも宿ったのかというほどの眼光を受けた私は、その場で卒倒せざるを得なかった。

 その後の紆余曲折、私の大立ち回りは語り草になっているだろう。朝駆けで得意先に伺い、ただただ頭を下げる日々が続いた。誠心誠意、懇切丁寧に謝り続けた。地に擦りつけたでこには、薄い瘡蓋さえできた。届けた菓子折は三十四、提出した顛末書は第十八稿にまで及んだ。私だけの問題ではない、この得意先との取引がなくなれば会社が傾く。何とかしなければならなかった。何とかできなければ、私の首が危ない。私が路頭に彷徨う羽目になる。詰まるところ、私だけの問題であった。私はただただ謝り続ける機械と化した。保身、矜持、生活。私の闘いは、四週間にも渡った。

「根負けだよ、明日の十六時、改めて契約書を持ってきてくれ」

 これが、昨日の話であった。社内に戻って、上司のデスクに急いだ。この四週間、私を超えるほどの大立ち回りを見せ、なんとか数字を遣り繰りしていた上司。目に見えて白髪が増えた彼にいち早く報告すると、深いため息をついた後に、ひと言だけ言葉をくれた。「明日の夜、空けておけ」。私は目頭を抑えた。

 そして話は、この個室に戻ってくる。得意先のオフィスがあるビルに勇み足で駆け込んだ私は、緊張のせいか若干の腹痛を抱えていた。しかし問題はない、約束の十六時にはまだ時間がある。とりあえず、ビル内のトイレに寄って用を足そう。何も問題はなかった。そう、紙がないということを除けば。

 私の右手には契約書が、そして左手には何もない。そして、汚れた尻がある。選択肢は、ふたつだ。右手か、左手か。人としての尊厳は、どちらを選べば守られるのであろうか。右か、左か。右か、左か。右か、左か。時計が動いている。右か、左か。右か、左か。

 得意先との商談は無事に終わった。帰り際「これからはしっかりと頼むよ、長い付き合いになると良いな」と、担当の方が手を差し出してきた。私は戸惑いを見せた。「何を遠慮しているんだ、今回のごたごたはもう水に流そう、ハハハ」と無理矢理に手を交わされた。

 私の生活は守られた。あれから十二年、大きなミスをすることはなく、得意先とも良い関係が続いた。年々と昇進を繰り返すなかで結婚もし、子どもにも恵まれた。大きくはないが、無理してローンを組んだ戸建ての家で、のんびりと珈琲を啜る。ふとあの日を思い返す。人としての尊厳は守られたと思うだろうか。あれから、普通の人なら幸福を感じられたときも、不幸と思えることも数多くあったはずなのに、あの日を思い出してしまうと、何もかも感じられなくなってしまう。私は一切のことを忘れてしまいたい。人としての尊厳は、守られたと思うだろうか。私は一切のことを、忘れてしまいたいのだ。人としての尊厳は、守られたと思うだろうか。

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