贋作・こゝろ


 初夏。記録的な豪雨が大阪を襲った。営業所に帰る道、傘を差しているというのに背広はずぶ濡れになった。腕時計を覗くと、もう時間は十九時を回っていた。今日は何もできなかった。この間のボーナスで買い換えた革靴は、見るも無惨な姿だ。せめて合成皮のものを選んで良かった、と不幸中の幸いを喜んだ。この雨は、もう一週間も続いている。

 街路樹のそばには蝉の抜け殻がたくさん落ちていて、豪雨に晒されている姿は醜いものだった。なんとなく数を数えながら歩いていると、まだ中身がいる一匹を見つけた。叩き落とされたのだろうか、無残なものだ。すこし藻掻いているようにも見えたが、もしかすると雨に当たってそう見えただけで、もうとっくに死んでいるのかもしれない。

 信号待ち。僕の隣に、折りたたみ傘の中に体を寄せ合う2人の中国人が並んだ。中国人、だと思う。たぶん。話している言葉がそれらしいだけで、確証はないのだけれど。せっかくの旅行だというのに、ついていない人たちだ。それにしたって、大きめのビニール傘のひとつでも買えばいいのに。

 思いついたときには、すでにからだが動いていた。何も言わずに、僕は自分が差している傘を彼らに差し出した。

「これを使ってください」

 彼らは意味がわからないというような表情でこちらを見つめていた。そりゃそうだろう。でも、今日一日、いや、この一週間、何の売上にも貢献できていない僕がひとりで差すより、旅行に来たあなたたちが差した方が、傘も喜ぶでしょう。だから使ってほしかった。僕は彼らの足下に傘を置き、その場を立ち去った。

 ずぶ濡れになった。当たり前だ。でも、それでいいと思った。たまには良いことができてよかった。言われたこともできない僕にしては、機転が利いているのではないだろうか。

 ちょうど、たまに立ち寄る喫茶店が近くにあったので、逃げ込むように入店した。店主である女性は、「あら大変」とタオルを貸してくれた。

「ありがとうございます、ええと」

 そういえば、もう7月だ。僕はアイスコーヒーを頼んだ。彼女は、すこし驚いたような表情を見せてからこう言った。

「からだが震えているみたい。冷房をすこし弱めてきます。よかったら、何かあたたまる飲みものをお出ししますよ」

 僕はよくわからないままに、「はい」とだけ答えた。ほどなくして、目の前に出されたものはホットミルクだった。横には、小さな陶器に入った蜂蜜が添えられている。

「すこし入れると、おいしいですよ」

 すこし。僕にはその加減がわからなかった。ホットミルクなんて飲んだことがなかったし、飲みものに蜂蜜を入れたこともなかった。僕が口ごもっていると、見かねた彼女が、言葉を続けた。

「あなたの好きな分だけ、入れたらいいんです」

 好きな分だけ、それがわからないというのに。でも、手をこまねいていても仕方がないので、僕はほんのすこしだけ蜂蜜を垂らした。カウンター越しに僕を見つめる彼女の目は、どこかあたたかいような気がした。ミルクを口に含むと、甘さがじわりと広がった。それは口の中だけでなく、からだ中に染みていくような甘さだった。おいしい、でも。僕は彼女に聞いた。

「もう少し、入れてもいいような気がします」

 彼女は「お好みで、どうぞ」とやさしい笑みを浮かべた。僕はまた、さっきと同じくらいの量の蜂蜜を垂らした。じんわり、じんわりと染みていく甘みは、からだをほどいていくようだった。何に縛られていたのかもわからないけれど、確かにほどかれていると感じた。不意に、涙がこぼれた。

「すみません」

 僕は、よくわからないままに彼女に謝った。彼女は「いいんです」と答えた。すみません、すみませんとうわごとのように繰り返してしまう僕に、彼女はずっと「いいんですよ」と答えてくれた。

「きっとよくなりますよ」

 彼女は窓の外を見つめた。




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