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この世に生まれて1年の、小さな人との外遊び


お気に入りの遊歩道。
ベビーカーから降りた小さな人は、てくてくと歩き出す。

道に転がる小石を触り、舗装された道をほじる。ほじった小石を排水口に落としたり、手から放して転がる様子を眺めたりする。

植えられた木の根本をじーっと観察して、ほーっと感嘆の声を出す。

散歩中の犬にむかって指差し、「わんわん!」と大きな声をあげ、ときに一緒に遊ばせてもらう。慈愛に満ちた表情で犬を撫でることもあれば、人懐こい子犬に身をすり寄せられ困惑することも。

犬とお別れをするとまた歩き出す。草木を引っ張ったり、叩いたり、撫でるように触れたり、木の実を摘んだりしながらすすむ。

サザンカの花がお気に入りで、見つけると、ん!ん!と言いながら指差し、花びらを拾い始める。今年はもう花も落ちて、冬の終わりを感じるな〜なんて思いつつ、私は隣で童謡「たきび」を口ずさむ。さざんか さざんか 咲いた道〜♩

木の上の方から小鳥の囀りがきこえ、指差し「わんわん」と言いながらじっと見つめ、さらに上空を飛ぶカラスを見つけて、やっぱり「わんわん!」と大声で呼びかける。

何かの植物がたくさんの綿毛を身にまとっていて、興味深そうに触り出す。ひとしきり触ったところで、私がふーっと吹いて飛ばしてみせると、嬉しそうにコロコロと笑う。飛んだ綿毛をじっと見つめたかと思えば、思い立ったように追いかけはじめる。

真っ直ぐ歩けば15分の道を抜けるのに、気がつくと1時間たっている。



「外遊びって何をすれば良いかわからない」というママ友の言葉をきっかけに、私たちは外遊び、なにしてるかな?って振り返ってみた。でも、名前のつく「遊び」はなにもしてなくて、ただただ、小さな人が気持ちの赴くまま過ごしているところについていっている。



白川静さんの『常用字解』でひくと、「"遊"とはもともと、神様が自由に行動するという意味であったが、のちに人が興(きょう)のおもむくままに行動して楽しむという意味に用いられるようになった」とある。

楽しいなあと思うままに、興味のわくままに、自由に行動することが遊び。もともとは神様のお戯れの意味。

気持ちの赴くままに行動して楽しんでいるのであれば、それはぜーんぶ「遊び」。

好奇心でいっぱいで、あれもやりたい、これもやりたい、全部が楽しい!という小さな人は、遊びの天才、私はお外に連れて行くだけで十分だ、と改めて思う。




「〇〇な子を育てる」「〇〇の力を伸ばす」という言葉をよく耳にする。子どもに幸せになってほしいという願いが、こんな子に育ってほしい、こんな力を身につけさせてあげたい、という願いにつながっているのは、素敵なことだと思う。

でも同時に考える。この人は今もう、十分に幸せで満ち足りているようにみえる。道端の花びら一枚で、とっても幸せそうな顔をする。伸ばそうとしなくてもすでに、好奇心に満ち満ちているし、チャレンジ精神旺盛である。磨こうとしなくてもすでに、一つのことに集中する力もある。自分という存在に対してどのような認知をしているのかはわからないけれど、すでに十分に自分を信じているように見える。そして大抵の場合、何をしてもどこにいても、楽しそうである。

だから、大人の思惑はなくても良いんじゃないかな、と思う。色んなことを自然や地域に任せておいて、身近な大人はたぶん、小さな人に寄り添える時間と心の余裕をもって、その時々の適切な距離で見守っていれば、子どもは自分の人生を自ずと歩んでいけるのではないかな、って思う。



そんなことを考えながら、子どもたちが青空の下で、ただただのびのびと自由に過ごせる場所はないものかと思いながら保育園を探していて、ご縁のあった園が、本当に素敵で。契約面談の日、近くの原っぱで遊んでいるところに混ぜてもらった我が家の小さな人は、初対面の子どもたちや保育士さんたちの中でもいつも通り伸びやかだった。

そんな様子が嬉しくて、感謝の言葉を伝えると、

"たとえ願いであっても、大人が子どもたちの未来を勝手に規定してはいけないし、あるがままに遊べば良いじゃん!と本当に思ってるんです"とおっしゃっていて、
あの伸び伸びとした空間は、そういう想いだからこそ生まれる場なのだな、と思った。

小さな人との毎日があんまり幸せで、目一杯仕事をしたかったはずなのに、4月からは平日の日中一緒にいられないことに少しめそめそしているのだけれども(笑)、でも、小さな人たちと保育士さんたちから学べることがたくさんありそう。春からの生活も楽しみになった。

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