人生は音楽。休符、一旦止まって

くしゃみをする前、一旦体の動きが止まって、眉を顰める。
そのあと、くしゅん!と爆発する。けど、爆発する前に消えるくしゃみもある。
爆発しそうなくしゃみを止めるとき、一生懸命鼻をつまむ。

それに近い行為だった。


赤信号から青信号に変わった瞬間、いつもなら「早く帰らないと」というせっかちな考えと「夜道は怖い」という不安のせいで、大きな歩幅で早歩きをしてしまうが、この日は違った。
急いで家に帰ったって、家族はとっくに寝ている時間だし、どうせここで早歩きしたって家に到着する時刻は変わらないから。いや、そんな安直な理由で立ち止まったんじゃない。

足が、動かなかったんだ。

それは、病的な何かではない。身体が疲れているからでもない。

「今じゃなくてもいい」と思った。
この信号がまた赤になったとて、すぐに青になるし、私はそれをいくらでも待てる気がしたからだ。
最近、少し遠くにある渡るべき信号が青でも、走らなくなったことを思い出した。それも同様、待てば絶対青になるからだ。

それはあくまで信号機のペースで、私の気の問題で青になったり赤になったりするわけじゃないが、私が信号機のペースに合わせることはずっとできるわけだから、最近はそうやって生きている。
これからは時の流れに逆らいたくない、という私の胸のうちに秘めていた思いを、無意識のうちに小さな行動に移していたのだろうか。

思いを行動(もしくは言葉)にしていくことは、大切だ。なぜなら、本当はすごく難しいことだからだ。思いの度合い・思いを向けた相手によるが、大体のことは胸の内に秘めたまま生きがちだと思う。
けど、その胸の内に秘めた「小さな無意識」や「意識した大きな改革」が、いつか人生の速度記号になるのであれば、誰にも伝えなくていいと思う。
人生という譜面があったとして、私たちはそこにさまざまな演奏記号を書き加えて生きている。
幾度も繰り返す小節では、音を“保つ”こと。
華やかな音が繰り広げられる小節では、“歌うように”。
けど、その譜面を他の誰かが真似して演奏するだろうか?
偉人となると話は違うが、一般人の人生の譜面などなかなか目にかかる機会はないだろう。ただ、周囲はいつもその譜面を気にして、指示だけは一丁前に施すのだから、タチが悪いと思う。

そうやって覗き見してくる人以外には、自分の胸の内など伝えなくてもよい。覗き見されたら、そいつの前で自分の人生を思う存分語ってやればいい。語りという演奏をすればいい。譜面の音が聞こえない、ただの解説だけの時間は退屈だから。

ただ、今回のように「気づいたら立ち止まっていた」みたいな、心と身体が気付かぬうちにお揃いになっていたみたいなことは、譜面をある程度うまく構成できているということなんだと思う。いい意味で「うまく」なのか、悪い意味で「うまく」なのかは、それぞれの捉え方次第だが。
うまく構成できているとこだけ、人に見せればいい。
その楽譜を無視した身体と心が、もし立ち止まらず歩き続けていたら、きっと今頃爆発していただろう。
私の人生という演奏は中止。観客は私の人生という音楽に低評価をつけるだろう。私という音楽家を生み出した者が、涙を流すだろう。

すべての事柄は、割と“出来上がっている”と思う。
まるで誰かが書いたかのように。

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