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消化と昇華、埋葬。

抽象的な質問が嫌いだ。
これについてどう思いますか、この間のイベントはどうでしたか、最近どう、という質問の意図が読み取れない質問。
私の個人的な感想が求められているのか、説明的解説を求められているのか、そもそも大して興味がないのか、
質問の背景を明確にしてくれないと、さ。
きっと人の求めることがわからないのが私にとって人間関係も今の活動も問題なんだろうけど。

みすiDここまできてどう、2020どうだった、という会話だって
言いたいこと?誰に言いたいこと?環境の変化のこと?思うように発信できてるかってこと?自分との向き合い方?ああ分からないひとつひとつ訊いてひとつひとつ考える時間を頂戴。私の頭には情報が浮かびすぎてしまうのだと思う。その割には筋としてまとめられないし優先順位の指標も持ち合わせていないから、
「(特筆すべきことは)特にないです」と私の脳は答える。

私は私の中にいる私と話をするのが好きなのだけれど、きっとその子は、引き出しの中に入っているのだと思う。それは自分で意図的に開けることができなくて、外の世界に開けてもらうことが必要なの。人との会話質問、聞いたもの、見たものや観たもの、つらいこと、感じさせられること。そんなものが私が私と対話する機会をくれて、私はそれを「心の旅」と呼んでいるのだけれど、要は私の引き出しを開けてくれる存在が、私の人生には必要なのだ。私を悩ませた作家、河野裕氏は人の人間観を掘る質問を、「頭の中を覗くような質問」と作品中で形容していたけれど、私は自分の外側に“それ”を求めている。誕生日、出身地、職業、学歴なんてものを問う質問には何の価値もない、のだ。
下らない会話に意欲も労力も割けない、から友達がいないのだと自覚はしているのだが。

違う違う、こんなことが言いたかったのではない、
2020年とミスiDのまとめが書きたくてパソコンと向き合ったのだけれど、自分の漠然とした問いが、世の中の抽象的な質問に対しての私の頭の中の引き出しを開けてしまったようで、ここまで話が大きくなってしまった。

※手っ取り早く本題へ進みたい方

「ミスiDや2020について改めて考えると何も浮かばなかったので、今までのメモや下書きを消化しつつ今私が吐き出して世界に伝えておかなければはならないことを吐き出します」
この時点までで言いたいことはそれだけです。ここまでの話は忘れてください。
ここからは脱線しないように祈ってます。

わたしはひとり、

まずやっぱり私は、ここまで来ても独りだなあと感じてしまう。
文花という名を用いて活動していた頃 きっと今より周りに“人”はいたのだけれど、結局私はひとりだな誰もいないじゃんってふと思ってしまったのね、
次の器を作らなきゃって丁度それがエントリーの時期で、だからミスiDの自己PRは文花と栗井の狭間の文章、モラトリアムみたいなかんじ。今読むと全部本音だけど時々自分の言葉じゃないなって思ったりする。

そして栗井としてミスiDファイナル、っていうすごいかもしれない所まで私は来たのだけれど世界と私の関わりって部分で変わったと感じられることは別になくて そもそも認識されていないしきっと忘れられているし 無意識で仲間外れにされているような人間だって実感させられるばっかり、まだ数合わせの気分。いてもいなくてもいいんだろうなって思う、それはそれでくやしい。本名のあやかも文花も栗井も、そんな他人や自分への小さな諦めや失望を繰り返して自分のことを何も認められなくなって いじめみたいに目に見える実害はなかったかもしれないけれど 私が孤独に感じたことは変わらない。きっとたくさんの人が周りにいてみてくれるようになったとしても 私は私のことをひとりだと言うし私のことを褒められないのだと思う。だからこのままの私で復讐するような気持ちでずっと生きてるよ、顔の見えない世界にざまぁみろって言うの、ばびゅーん。全部私だって気づいて拾いなおした文花もいまの栗井も、どうせ器でしかないから結局その器でしか見てもらえなくなって 境目がわからなくて ひとりって思っちゃうんだよねわかってる。現状の幸せを受け入れられない不憫な女わかってる。抜け出したくてずっとその席にしがみついているの。みなはこの栗井文花という器になにをみてる?

こんな底抜けみたいなの器の栗井文花に必死に縋ったって 自死もしくは突然の事故に見舞われない限り死ぬまで一緒にいてもらうことはできなくて、どこかで手放さなければいけなくて
せめてそのときには笑ってさよならって手を振れるように 栗井と私は同じ人物なんだよって認めて 今は栗井文花を生かし続けるしかないなあと思います。愛してもらうには、まずは自分が自分を愛さなきゃ。世界に復讐するのも愛するのもそれから。
第一章おわり。

登場人物になりたい、

次。ゆめ、登場人物になりたい、の件。
どこまで考えても考えても、お芝居をすること演技をすることと 物語の登場人物になることは別物でした。お芝居をしたくないというわけではないのだけれど 怖いというかどこか違和感があって あぁまずお芝居を全くしたことのない素人が話しているということを前提でお聞きくださいね。実写化作品が賛否分かれるのはきっと自分や現実に近づきすぎてしまうからで アニメだと面白く入り込んでみれるものも、同じ人間が再現すると実在しないものと現実の、海溝みたいな溝ができてしまうんだよね多分。私はそう。お芝居と登場人物の違いも、なんかそんな気分なの。お芝居がしたい、よりも私は “あの”物語の登場人物、“あの”人になりたいわけで。(君電の千草ちゃん、三日間の幸福のミヤギ、階段島の掘、同級生の佐条利人、紡ロジックの瀧紡、誰ソ彼ホテルの音子、神はじの奈々生、お日柄もよくのこと葉……挙げるときりがなかったごめんなさい。)私的に簡単に言えば、物語の登場人物になれるならその方法があるのなら お芝居はしなくてもいい、なんですよね。ああすごくわかりやすい。登場人物になれるかは演じる人がどれだけ没入できるかで...いやだから私はやったことない素人だって言ってるじゃん。

やりたい役、というものを考えてみたのだけれど(役、と言ってしまってるよね、なりたいものです)、人の魂を持った人魚だったり魔女だったり霊だったり、1人の人からしか見えなかったり。ファンタジー、空想の人というか、なんかうまく言えないけど実在しない登場人物、が多いような気がします。太賀さん主演の「あのコの夢を見たんです。」はまさにそれだったな。とにかくこれ以上大好きな物語に触れて苦しくなって物語を嫌いになってしまうくらいなら、物語がないと生きていけないくらいまで依存してしまいたいなぁと、そう思います。一番強い気持ちだったのになんか一番内容薄そうだな。終わり。

強さで人は救えない、

最後。そのままの意味。
本当につらいとき、苦しいとき、どうしようもなく闇の中にいるような気持ちの時、誰もが認めるような圧倒的な強さも正論も正義も、何も解決しない、救ってくれない。なのに強い人って自分に絶対の自信があるから 自分が正しいよって善意で押し付けてくれる。それができたらもうやってるしこんなに苦しんでないでしょ。それくらい、人の言葉って届かないし解決能力もないし すべてが綺麗事や嘘に見えるような感覚になる。同情するなら金をくれって、冗談でも言いたくないくらいダサい言葉だなぁと思ってたけど 実際ほんとにそうだったよ。

でも今よりも人間関係に縛られていた頃、他人見てると自分が醜くなるって話す私を見て人間らしいって面白いって にやにや笑ってる人がいたのね 私が初めに救われたのは多分その時で あの人は別に私を励ます気はちっともなくってただ本当に私が悩んでる姿みて愉しんでただけなのね、私は人を救うっていうのはそんなものだと思ってる。
生きるのが辛い寂しい劣等感憧れ疎外感普通になりたいどうせ私なんて、って人に違うよって言いたいし自分好きになって自分の生きやすい場所で生きてほしいけど、そんな人たちを救うのは 希望を見せるのは、“自分を受け入れて好きになって自分らしく生きて“ってそんな言葉じゃない。もっと別の方法で伝えないといけないの。
人に簡単に何か届くなんて絶対に思うなよ 簡単に手を差し伸べられるなんて絶対思うなよ、勝手に何かできる気になるな自分がそうだったようにって言い聞かせて 正義や正論で人を殴らないように 無意識に言葉で誰かを傷つけてしまわないように自分に十字架を課して。

だけど確実に今年わかったことがあります。
私の物語では圧倒的に私が正義であり真実だということです。
ほっといたって誰かの正義で殴られる世界、なら自分の正義貫いて振りかざしてこうよって 当たり障りのない誰も傷つけない言葉並べてるの時間の無駄、傷つけるの怖くて何もできない何も守れない何も愛さない、よりは 野次馬になるよりは その方がいいじゃんって やっと気づいた。誰かを救うっておこがましいこと簡単に思っちゃいけないけど、私がどん底だったとき 1人じゃ自分を救ってあげられなかったのも事実。だから手の届く範囲だけでも誰かに届いて自分の正義が通用したならそれはもう万々歳だと、そう思いませんか。

でもだから私の正義を人に押し付けることはしない、
私は自分の正義を貫いて生きます生きてます、だからそこのあんたもあんたも自分の正義で生きてくれって、見せるしかないんだって気づいた。みんなが正義。だから大きな光のような存在になりたいとも別に思わない。きらきらして言葉が届かないのなら闇の中で隣にいる方がいい。顔を出さない方がいいならそれでいい。テレビの人よりネットの人がいいって今はおもう。そんな偶像になりたい、それが私のアイドルです。
だから、強さはいらないけど強くはなりたいかな。誰も見てなくても違う正義で殴られても私が正義だと言えるくらいには。

まとめ

終わりですたぶん。
これだけ書き殴った上でミスiDや2020はどうだったかと聞かれれば「この全てを叶えるための私の居場所や特別はまだ見つかっていません」と答えられそうです。ミスiDは私を認めるための通過点なんだよ~って外には言って自分にもそう言いながら 正直何もなしで終わってしまったら今度こそもう終わりだって思って怖かった、というか今もこわいです。頭はわるいけど私はある意味こんなにものを考えられるし 正義感というか信念だってその辺のずっと愛されて人生勝ち組みたいな人達よりあるはずで もっといいところがあるはずで それがうまく世界に伝えられない もしくは世界に順応できないというだけでこうして放り出されて でもミスiDならって思いがどこかにあって これでだめなら死ぬ理由はなくても生きる理由もないよね、というかんじ。こんなこと言って縋ったら見捨てられるかな、だめだめ見なかったことにしてください。

風の時代では、埋葬よりも散骨が流行るらしいですね。
ここに供養した誰かに聞いて欲しかったはずの私の気持ちはどこかの誰かの血肉として黄泉返るのでしょうか、残された私は大好きな彼のあの物語、の人魚のように誰かのために身を尽くして消えることができますか。滋賀に海はありません。もう疲れて意味がわからないけどもう疲れているので修正はしません。
2021は生きていたら世界すきだよ、と言えていたいです。

最後にもう一度言っておきます。
私の人生では、私が正義です。

2020.12.30 22:32 栗井文花

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栗井文花

ありがとうございます。貴方になにか届いたのなら、それで幸せです。

よければ貴女のことも、お聞かせください。
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いちばんどうでもいいことが、いちばんきいてほしいことだったりします。