怒るおじーさん

怒るおじいさん


周りに大声で当たっていたおじいさんを見て、何故か泣いてしまいそうになったこと、を思い出した。
あのおじいさんはどうして怒っていたのだろう、

怒りに任せ、言葉をぶつけることしかできなかったのかもしれない。
それでも、言葉にする、思いを吐き出す、という行為は綺麗なものに見えてしまう。


何を言っても、どう伝えようとも、届かないことがある、分かり合えないことがある。

誰に対してもひどく気を遣う、という話をしたことがあります。
話した相手は、私が気を遣わずに人と関われる方法を懸命に考えてくれた。

そうじゃなかったのに、
私は自分にはそれが生きやすくて、自分を守るためにそうするの。
直したいなんて思ってなかった、その方が楽だった、

という思いは伝わらなかった、
誰とでも仲良くうまくやるあの子には。

それは、私の伝え方が悪いかったのかもしれないけれど。
どう言おうとも受け入れられず、彼女は困ったような顔をしていた。

あぁ、根本から違うのだろうな、と。
考え方が、生き方が。

分かり合えないという諦めと、
みんな仲間じゃない、“わたし”を見つけたことに対する心の中でのよろこび、
だから人と話すことってやめられないのよね。


おじいさんも、自分の思いが伝えられなくて、届かなくて、行き場のない思いが溢れて溢れて、怒りに任せるしかできなかったのかもしれない。
自分に対しても、相手に対しても、どうしようもできない悔しさから。
その必死さが届いたから、わかってしまったから、私は泣きそうになったのかもしれない。

私たち、
お揃いかもねおじいさん。


ありがとうございます。貴方になにか届いたのなら、それで幸せです。