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普通に生きたくて必死に生きている私が、これから生きていく為のことば


物語に関わって生きていくこと、それが私のゆめ。
物語は誰かの人生であり、物語に関わることは誰かの人生に関わるということである。
その物語は人が作り出したフィクションかもしれないし、誰かの生きざまになるものかもしれない。ストーリーに関わることで誰か、特に生きづらいと感じている人たちの世界や選択肢を広げるきっかけになりたい、少し世界が明るく見えるような、そんなきっかけになりたいと思っていた。
わたしみたいに生きづらい思いをする人が少しでも少なくなればいいと思った、そうすれば私も救われると思った。


だけどコロナが蔓延して数か月、今から3か月前、私はうつになった。
コロナで世界が狭くなったこと、もう元の私に戻れないと思ってしまったこと、少しの生きづらさがたくさん重なったこと。色々限界だった。徐々に気分が落ち込んで無気力になっていき、「うつかもしれない」と思った頃、正直初めはしめたと思った。「うつである私」が発信する言葉には、「何となく生きづらい私」よりも説得力があるのではないか。もっとたくさんの人に声が届くんじゃないか。そんな考えは勿論甘かった。

私は正確には“うつ状態”だった。
精神科の先生からは「綺麗なうつ状態ですね」と言われた。うつ病と診断するには若すぎるし躁うつ病(双極性障害)と結論づけるための“躁状態”は確認できていないからだ。病気だとも診断してもらえなかった、結局私は中途半端なのだ。

だけど心はいつもぼろぼろで心の形をしていないようだった。タロットカードで言えばソードの8や10の描写のよう。
何度も死のうと思った。死んでしまえると思った。湯船に浸かっている時はこのまま頭まで沈んで全部終わると思ったし、夜に散歩に出かけると涙が止まらなくなって、このままどこかに消えていなくなってしまえばいいと思った。だけどその後の身の回りのことを考えると何もできなかった。
「あなたがいつも私を救うから、私を生かそうとするから死ねないの」ある物語で読んだシーンである。あなたがいるから死ぬことができない、と言って自分を救おうとする彼女を殺し、少女は念願叶って自殺するのである。
私も、私のことを覚えている人がいる限り、本当にひとりぼっちにならない限りいなくなれないのだなと思った。

病気や災害で人は簡単に命を落としてしまうのに、どうして簡単に死ぬこともできないのだろう。こんなこと誰にも言えなかった。周りに負のエネルギーを振りまいてうんざりされて余計に人を遠ざけてしまうだけ。
おまけに体が少し元気になれば、同じように心も元気にならなければちゃんとしなければと私に染みついた強迫観念が私に平気な振りをさせる。落ち着ける場所なんてなかった。

夜が来るのが怖かった、朝を迎えるのも怖かった、もう目覚めなければいいと毎日思った。何もしない何もできない無駄な毎日をもう繰り返したくなかった。生きることで絶望したくなかった。だけど消えてしまいたいと思う割には蒸し蒸しとした気候にうんざりして涼しいところにいたいと思うし、蚊取り線香もつけるし毎日体重だって測っている。矛盾ばかりだ。


物語が好きだったけど、大好きだった本は読めなくなった。頭の中で活字をイメージとして変換することができなくなった。代わりに映像は見られた。スマホ、Youtube、動画を見てただ時間を浪費した。アニメも観た。やっぱり物語が好きだった。私の人生も、物語であるならば逆転するはずだと思った。


私は普通に生きたかっただけだった。
普通に友達がいて、週末には楽しみがあって遊びに行く相手だっていて 嫌なことも美味しいものと睡眠で忘れてしまえて、学校も仕事もだるいなぁなんて言いながら自分で稼いだお金で生活をして好きなものを買う生活。

ちゃんと勉強してちゃんと大学を出てちゃんと就職すれば普通に生きられると思っていた。だけどそれすら私にはハードルが高かった。大学に行くことを考えると苦しくなった、よくわからないままカリキュラムというレールに乗っていられなかった。ただ正解を求めることが窮屈だった。学業って忍耐を試すものだっけ、みんなどれだけ我慢強いんだろう。きっと私は高校の時から、もう頑張れないと思いながら平気なフリをしてレールに乗っていたんだろう。ずっと前から限界だったのか。

うつのおかげで逃げられたのかだけど大学に戻れない私は卒業まであと半年で、逃げてしまえば就職もできないのか、一時的に逃げる口実を得てしまった私は何かを捨てることもできず、結局がんじがらめだ。「どうしようもない、どうにもならない、なんてことはないんだよ」精神科の先生は言った。心が壊れてしまうくらいなら逃げることも必要、それは分かっているけれど。その後の私は一体だれが、どの社会が保障してくれるのだろう。

生きづらさを抱えてしまった私は普通に生きるためには頑張らなくちゃいけない。生きやすい世界を作らなきゃいけない。普通だったらこんなに苦しんで頑張らなくてもよかったのに。
でもそれが、私が生涯成し遂げたいことであり私の物語になるのだと思う。


マイノリティ、とか女性の生き方とか、みんながらしく生きる考え方とか関心があって発信したいことはたくさんあるのに、うまく発信できる頭はなくて私の表現はいつもポエミーになる。例えばHSPやADHDの特徴、なんて皆に分かりやすく言語化して発信している人を見て共感させられて悔しい思いをするばかり。私の言葉でしか発信できない。どうしたらいいのかわからない。女の人がもっと生きやすくなればいいと思うし、生きづらい人が自分を殺さず生きられればいいと思う、私だって思っているんだよ。
可能性に溢れるこの現代で何もできない私。努力できない、努力の仕方がわからない私。そうして夢ばかり語る私。

夢。
物語に関わりたい、誰かの世界を広げたいという私のゆめ。
その物語は人が作り出したフィクションかもしれないし、誰かの生きざまになるものかもしれない。ストーリーに関わることで、生きづらいと感じている人たちの世界や選択肢を広げるきっかけになりたい、少し世界が明るく見えるような、そんなきっかけになりたいのだ。
言葉による表現かもしれないし、お芝居による表現かもしれない、ロケ番組のレポーターのような立ち位置かもしれない。或いはまだ名前もない生き方なのかもしれない。時にはイタく見える私の世界や感性で、誰かの物語に関われたら。
もしかすると私の人生も救われるのかもしれない。

自分はだめなんじゃなくてまだ私の特別に出会っていないだけ。
そう信じたい。その言葉を逃げる言い訳に引っ提げるのではなくて。

これは生かされている私がこれから生きていく為のことば。
普通に生きたくて必死に生きている私が、いつか報われると信じて

わたしはまだ、わたしの特別を探している。

ありがとうございます。貴方になにか届いたのなら、それで幸せです。