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深瀬昌久という写真家について

深瀬昌久という写真家がいます。

代表作は、妻を撮影した『洋子』、カラスを撮影した『烏(鴉)』、家族写真を撮影した『家族』、飼っていた猫を撮影した『サスケ』、離婚した妻とかつて暮らしていた街を一人で撮影した『歩く眼』、自身が風呂に入り水中カメラで自分の顔を撮影した『ブクブク』、風景に自分を入れた自撮りの先駆け『私景』等です。

1934年2月25日、深瀬昌久は北海道美深町にあった深瀬写真館の二代目の長男として生まれましたが、家を継ぐことなく上京し、写真家となりました。
写真家となってからは、1971年にカメラ毎日の編集長山岸章二編集のもと初の写真集「遊戯」を刊行。いわゆる「私写真」と呼ばれる私生活をありのまま表現した作品を発表します。その後作品は変遷を経て最終的には飲み屋で出会った人と深瀬自身が舌をくっつけて撮影する『ベロベロ』、風呂場で自らを撮影する前述の『ブクブク』を発表した後、1992年6月20日の深夜ゴールデン街の行きつけのバーの階段から滑り落ちて脳挫傷を負います。社会復帰は不可能と診断され特別養護老人ホームへ入所し、20年後の2012年6月9日、死去。享年78でした。

深瀬がカメラ毎日に寄稿していた頃の作品。「カメラ毎日」1968年1月号より。

それでは、深瀬昌久とはどういった人だったのでしょうか。

洋子

深瀬は1964年に、前年に出会った鰐部洋子と結婚。結婚以来10年以上にわたり「洋子」を撮影することになります。

画廊へ出勤する洋子を毎日同じ窓から撮影した作品

洋子を撮った写真は、普通では写真に撮らないようなものも含まれ、「私写真」の先駆者として活躍した深瀬の才能が発揮されています。深瀬は、60年代にはふたりが暮らした埼玉の草加松原団地を舞台に、70年代には旅先の北海道や金沢、伊豆などで洋子を撮影しています。1973年には、この年の夏から1年間にわたって洋子を撮るという決意のもと、伊豆の海水浴や妻の故郷である金沢などで集中的に洋子を撮影します。
1968年にはすでに洋子とは衝突が絶えなくなっており、深瀬は家出をして新宿で暮らしているのですが、1971年に妻を伴って北海道へ帰郷し、家族写真を撮影。その写真は、深瀬の父母や弟妹の中に半裸の洋子がいるという異様なものでした。
1973年頃から洋子とは諍いが絶えなくなり(撮られるために生活しているようなパラドックス)、「洋子」を撮り終えた後、妻洋子との生活は破綻。1976年に深瀬は洋子と離婚します。

烏(鴉)

洋子との結婚生活に疲れた深瀬は、1976年の離婚直前に故郷の北海道美深町へ逃避行に出ます。その中でカラスという被写体に出会い、真っ黒な夜空に真っ黒いカラスを撮るという作品を撮り始めます。最初は自身の故郷で、1977年には妻の故郷である石川県金沢市でカラスを撮影し、1986年に『鴉』として写真集にします。この時の深瀬は、自身の孤独をカラスに重ね合わせていたのではないかと言われています。ただ、自分自身と向き合うための自分の故郷ではなく、結局カラスを撮りに妻の故郷に戻ってしまうのですが。

家族

家族という作品は、盆や暮れの帰省のたびに家族全員を集めて、深瀬写真館の2階スタジオで撮影した家族の記念写真のシリーズになります。1972年には劇団員や舞踏家の女性を伴って帰省し、それを家族の中に加えて家族写真を撮影していました。また、父親と深瀬本人が上半身裸になって二人きりになり、カメラの背後に他の家族が回ってそれをじっと見つめ、弟子である写真家瀬戸正人がシャッターを押すという光景もあったようです。

父の遺影が写った家族写真

この写真は、弟と妹の結婚を経て、大所帯に成長した家族を、父の葬儀の日である1987年1月に撮影した写真です。上段左の深瀬の隣にいる弟の了暉は、「深瀬写真館」を3代目として引き継いでいました。父の遺影を挟んで上段右は弟の息子卓也。中段左は弟の妻明子。中段真ん中は深瀬の母みつゑ。中段右は妹の夫である大光寺久。下段左は弟の長男である学、下段真ん中は弟の長女の今日子、下段右は都の遺影を抱えた深瀬の妹の可南子。傾いた遺影に真顔の弟、そして妹の夫が申し訳なさそうに笑っているのに言いしれぬ恐怖を覚えます。火葬場で深瀬は父の頭蓋骨の写真を撮り、「頭蓋骨が割れずに、こんなにキレイに残るのは珍しい」と弟子の瀬戸に説明したと言います。
この写真が撮られた2年後、「深瀬写真館」は廃業し、母のみつゑは特別養護老人ホームへ入所。弟夫婦は離婚。妹夫婦は札幌に移り、一家は四散します。

サスケ

サスケについて、上で「飼っている猫」と書きましたが、正確に言うと山梨にある「親戚の農家の空き家になっている一軒家」に預けていた猫のことです。ちなみに岩合光昭も深瀬に猫をあげたことがあるとか。深瀬はサスケのことが可愛くて仕方ない反面、池にいきなりサスケを投げ込んで面白がりながらシャッターを切り、びしょ濡れになって上がってきたサスケを見て一人笑っていました。ちなみに、なぜ猫を撮らなくなったのかについては不明なのが気になっています。

歩く眼

1983年、『鴉』のほとんどを撮り終えた深瀬は、洋子と住んでいた草加市の松原団地から「歩く眼」の撮影を開始し、上京以後30年間で移り住んだ14ヶ所を順々に再訪します。そして、若かった頃に洋子と暮らした馴染みのある場所で、NDフィルターをレンズの上半分に被せる(いわゆる「ハーフND」のような)技法を用い、不気味な写真を撮るようになります。例えば、公園の広場にポツンと座る子供の写真があるのですが、写真の上半分が暗く落ち込んでいて、陰鬱で不吉さを醸し出すものでした。
この一連の「歩く眼」について、弟子の瀬戸はこう呟きます。

写真にとっての中心となる重要なポイントがもはやないのではないか

『深瀬昌久伝』瀬戸正人著, 日本カメラ社,2020

ブクブク

ブクブク

そして、深瀬は1991年から「ブクブク」をはじめに「ベロベロ」「私景」「ヒビ」そして発泡スチロールといった作品を撮り始めます。同じ日に自宅の浴槽で「ブクブク」を撮り、その午後に自撮りである「私景」を撮り、ひび割れた地面の「ヒビ」を撮って、店先の発泡スチロールを撮っていました。こうした一連の作品について、先の瀬戸はこう述べます。

「私」そのものに向かって突き進んだ深瀬さんが自ら崩壊していったのではないか

『深瀬昌久伝』瀬戸正人著, 日本カメラ社,2020

私景

1992年の春、深瀬はニコンサロンで11回目の展示をすることになっていました。その半年前、大量のプリントがあるからと深瀬に言われた瀬戸は、学生たちを2、3人集めた状態で準備万端に深瀬を待っていました。しかし、時間になっても深瀬は現れません。アパートに行ってみると、深瀬は昼から呑んでいました。

「『ベロベロ』と『ブクブク』は滅茶苦茶にいいぞ!世界的になるからな!すごいぞ!」
 もう、妄想に歯止めがかからなくなっていた。一人語る深瀬さんを僕は見ているだけだった。現在の事ではなく、未来の事ばかり言っている。唐突に「ニースに住むんだ」、「作家になるから…」と言い、「世界的」と何度も言うのだった。こんな事を決して口にする人ではないし、そんな事を言う人間をむしろ軽蔑さえする深瀬さんを、僕らの誰もが知っている。
(中略)
「物書きになって、ニースへ住むんだ」、魔法のような言葉だった。写真家深瀬昌久はどこへ行ってしまったのだろう。もう、この世にいなかったかもしれない。その頃の深瀬さんの内実はただならぬ事態になっていたのを、改めて実感した。

『深瀬昌久伝』瀬戸正人著, 日本カメラ社,2020

1992年2月〜3月にニコンサロンにて開催された「私景'92」が、深瀬存命中の最後の写真展となりました。

終わりに

2023年3月3日〜6月4日の期間で東京都写真美術館にて開催されている「深瀬昌久1961-1991 レトロスペクティブ」の図録には、興味深い話がいっぱい載っているのですが、その中で「私景」に関する解説文は、かなりうなずかされるものでした。

自身が関心ある対象を写真に撮ることで消去法のごとく撮影対象を順々に失っていった深瀬にとって、晩年に残された被写体は他でもない彼自身だった。

『深瀬昌久1961-1991 レトロスペクティブ』赤々社,2023

深瀬は被写体を撮る事で、被写体が消滅していってしまう人だったのです。となると最後は自分しか残りませんが、自分と写真との関係がもはや切羽詰まった状態になっていた深瀬にとって、それは何が起きても不思議ではない状態を意味するものでした。深瀬にとっての被写体とは、洋子と父に他ならず、それが失われた以上残った「私」に突き進んでいくしか道がなかったようにも思えます。

自分自身が写真になった男、深瀬昌久のお話でした。

【参考文献】


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