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夕暮れの蝉(1)

母が倒れた


雨がやんで、穏やかな夕暮れが山から下りて街を包み始めていた。
早めの夕食を作る私に代わって、普段は取ることのない知らない番号からの電話に出た夫が交わした短い対応に不穏なものを感じて振り向いた私に、夫は「お姉さんから電話」と様子を窺うように受話器を差し出す。
もう長姉とは10年近く話をしていない。

「こんばんわ。忙しい時間にすんません」と違和感のある関西のイントネーションで切り出した姉は、母が脳梗塞で倒れたことを告げた。

それは昨日、7月3日のことだったということ、それを受けて今日関西から出てきていること。明日、帰らなくてはいけない事を告げ、電話したのは、母を姉の住まいのある関西のグループホームに移すことを肉親である私と次姉に了承を取るためだと手短に聞かされる。
あわせて、いずれ引っ越しの際には手を貸してほしいとも。
質問したいことは山ほどあったが、電話の向こうでチャイムが鳴り「ではまた掛けさしてもらいます」と長姉は一方的に電話を切った。

足元が見えない暗闇に放り出され、放置された私は、淡々と夕食の準備を進めることでなんとかこころが引きずり込まれるのに抗っていた。やっと穏やかな気持ちで日々を過ごせるようになっていた私は自分の心がまだ羽化したばかりのセミのようにグロテスクなまま無防備な状態であることを思い知った。

私は、母とも数年前から直接会うことを止めていた。
きっかけは長姉だ。    


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