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想像力が大切なのは時と場合によります。

お布団の哲学『想像を絶する』の稽古で爆論した。ざっくりまとめると「第一部はともかく第二部出来るわけねえだろコノヤロウあと戯曲がフツーに技術的に稚拙」っていうやつで、爆論が終わる頃には「これは1000%自分が悪いやつだ」ってなったので反省しながら改訂した。関係ないけど稽古場を2回間違えて遅刻して3回目に辿り着いた結果、爆論としてはちょうどいい尺のものになった。けど遅刻してごめんなさい。

自分の戯曲のことがいちばんわかんなくて「なんて書いてあるんだろう」という感想しか常にないので稽古場で「おいおいおいおい」っていう総ツッコミタイムを一回通り過ぎないと戯曲を書けない人なんだと思うから小説書かないんですかってたまに言われるが書かないんじゃなくて書けないんじゃないかと思う。でも人はなんべんか人生で生まれ変わるからあるいは書けるかもしれない。でも知らない。小説的な戯曲って言われたこともあるけどでもそれはどういう概念。インタビューで戯曲の狙いとか聞かれても黙ってしまうという問題は自分の作品を他者の作品だと捉えて批評することによってベラベラ喋るという方法でいちおう解決できるようになったけどそれは根本的な解決ではないのも知っている。

スピノザ『神学・政治論』を繰り返しちょこちょこ読んでいる。原案っていう扱いだけど多分97%ぐらい理解できてないから戯曲には残り3%から汲み取った何かが反映されるだけで、実際問題0.1%あるかないかぐらいのスピノザ成分(当社比)。スピノザは人を逆撫でする才能にみなぎっていて心から尊敬できる。

想像上の金属バットみたいなものが脳内に常にある。それが光ったときにしか戯曲は書けないので光待ちで、光った瞬間に飛びついてブンブン振り回している別の僕がいて、今の僕は壁を金属バットで叩いた跡をみて何が起こったかを類推するしかない状態なので困る。エッセイや劇評はいつでも書けるのに戯曲そうじゃないのとても不便だと思うけど想像力の不思議さに満ち溢れている現象でそこはちょっち好き。でもこの感覚を誰にもうまく伝えられないので困る。

人は想像力に振り回される生き物だ。
起きたことに一喜一憂出来ればいいけど、起こってもいないことに一喜一憂してしまう。
想像を絶することが、出来ればいいのに。

今も無駄に憂鬱。

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