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『知らずに済むならそうさせて』創作日記♯3

坂あがり相談室plus、企画の段階では、稽古場見学が二回あり、長めのトークを設け、そこで受けたフィードバックを作品に反映し、急な坂スタジオ滞在の最終日に、新作短編の本番を迎える予定だった。ところが、急な坂スタジオの皆さん、俳優の新田さん、演出の橋本さんと相談を重ねていくうちに、いつのまにか本番を消滅させるということに全員が合意し、稽古場見学だけを二回することになった。つまり今、本番が存在しない作品の稽古の日々に全力で座組が没頭しているわけだが、やってみてわかったのは、本番という明確な目標がなくても、有意義な稽古は出来る、ということだった。

稽古は目的がないと出来ないのかと思い込んでいたけれど、意外と、目的がなくても出来る。目的があるのかもしれないが、それは、本番じゃなくても別に良い。

本番のために稽古していないとしたら、じゃあ、なんのために?

気持ちとしては、よりよい稽古のために、稽古をしている。

よりよい本番のためではなく、よりよい稽古のためにする稽古は、なにかこれまでと体が変わるというか、知らず知らずのうちにこびりついていた呪縛から、脳が解放されたような、心地良い感覚がある。それは、人間の根源的な営みに近い。金銭が発生していないのも大きい(いや、急な坂スタジオから交通費はありがたいことに貰えているのだが)。高校演劇に関わっていたとき、わたしは脚本を書いておらず、俳優であり、演出家であった。わたしは最も人生で自由な瞬間を維持することができた。なぜなら高校演劇は驚くべきことに、資本主義から解放されているからである。すなわち無料である。高校演劇の本番に向かうときの精神は、いわゆる小劇場のマーケットに乗って、話題になって、なんかよくわかんないけど観客の数が増えるにつれてチケット代がちょっと上がっていって、インタビューや対談が公式の媒体に載るようになって、SNSのフォロワーが飛躍的に伸びて、注目されてトレンドになって…みたいな制約と乖離することが出来ている。

断言しよう。わたしは生まれてから今まで、観客が楽しむためにわたしにとって切実な問題を諦めよう、歪曲しよう、最小限に留めようとしたことが一度もない。それは、世界に対しての敗北であるからだ。

わたしは純粋な稽古だけの日々を謳歌している。それはわたしのことを新田さんのことを橋本さんのことを、急な坂スタジオから出る直前まで全身全霊で考える時間だ。なにも決めなくて良い時間だ。出ハケも決めなくていい。上演時間もアナウンスしなくていい。極端なことを言えば、戯曲の〆切はない。正確に言えば、わたしの寿命が、〆切である。本番のない作品というのは、要するにそういうことである。

そのことをわたしが生きているうちに、知ることが出来て、本当に良かった。

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