私の百冊 #10 "Franny and Zooey" J.D.Salinger

サリンジャー

①『フラニーとズーイ』 (新潮文庫) サリンジャー https://www.amazon.co.jp/dp/4102057048/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_xBQRFbSC0NQ1J @amazonJPより

②『フラニーとゾーイー』 (新潮文庫) サリンジャー https://www.amazon.co.jp/dp/4102057021/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_1CQRFbG1MH9MK @amazonJPより

③『サリンジャー選集(1) フラニー/ズーイー』J.D.サリンジャー https://www.amazon.co.jp/dp/4752100002/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_SDQRFbPS8XY9E @amazonJPより

④"Franny and Zooey" (English Edition) J. D. Salinger https://www.amazon.co.jp/dp/B07W5H6S7H/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_qGQRFbX9NJR6A @amazonJPより

写真は僕の書棚に並ぶ四冊――③原田敬一訳が1968年、②野崎孝訳が1976年、①村上春樹訳が2014年の出版だ。(④PENGUINは学生時代に古書店で拾った。③も神保町の古書店でセット買い。②は確か高校の購買で。①はつい最近のAmazon)

さて、Zooeyである。原田氏は〈ズーイー〉、野崎氏は〈ゾーイー〉、村上氏は〈ズーイ〉とした。原田訳は一般の書店には(たぶん)多く出回らなかったと思うので、問題は新潮文庫である。2014年以前に学生だった人間は〈ゾーイー〉と呼び、2014年以降に学生となった人間は〈ズーイ〉と呼ぶ。今後、新潮社が村上訳しか印刷しない腹づもりであるらしいことが、同社のHPで検索する限り、どうも確定事項とされているらしいからだ。

村上訳が出たとき、僕もちょっとそんな気はしたのである。なぜなら、下の背表紙の写真を見ればわかるように、村上訳の「ID」が野崎訳と同じ「サ52」であることを、書棚に並べた際に発見してしまったので。間違いなくこれは新潮文庫を一意に特定するコードであり、世の中に二つあってはならないものだろう。

画像2

書棚に既読本と縦に並べるのは、言うまでもなく読了した後であるわけだから、このとき僕は愕然とした。上の背表紙の写真からも明らかなように、新潮社はこの本をサリンジャーの名前ではなく、村上氏の名前で売ろうとしている。チャンドラーの村上訳も、これと同じように、背表紙は「レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳」となっている。

文庫本の背表紙に原著者/訳者の名前を並べるのは、岩波文庫は例外なくそうなっているようだけれど、新潮文庫では恐らく村上春樹訳のほかにないのではないか? 少なくとも僕の書棚をざっと見る限り、クンデラもナボコフもドストエフスキーもカフカもモームもシェイクスピアも、新潮文庫の背表紙に訳者名が記載されている本は存在しない。

慌てて断りを入れておくが、僕は村上春樹氏をけっこう贔屓にしている読者である。長編はすべて読んでいる。中でも『1973年のピンボール』『海辺のカフカ』『1Q84』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は大いに気に入って幾度も読み返している。――それでも、こと "Franny and Zooey" に関する限り、野崎訳を廃して村上訳のみとするのは、かなり乱暴な話ではないかと考えざるを得ない。なぜなら、村上訳は村上春樹氏の本になってしまうからだ。

「サリンジャー=ライ麦畑」だと思っている人は、ひとまずその考えを脇に置き、大急ぎで『フラニーとゾーイー』を読まなければならない。そして続けて『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』を読まなければいけない。さらにはやはり『ハプワース16、一九二四』を読むべきだろう。なぜなら、「サリンジャー=グラース家サーガ」こそが真実だからである。

と、こんなことを書けば、世の〈ライ麦畑信者〉から脅迫状を送り付けられるかもしれないけれど、真実を捻じ曲げるわけにはいかない。そして、「グラース家サーガ」を読むからには、やはり野崎訳で読むべきだろう。僕らは村上春樹氏の本を読むわけではないのだから。サリンジャーというアメリカの作家が描いた或るあたたかな家族の物語を読むのだから。だけど村上訳だと村上春樹氏の本を読むことと同じ事態になってしまうから。――と、こんなことを書けば、世の〈村上春樹信者〉から脅迫状を送り付けられるかもしれないけれど……。

グラース家サーガはあちこちの作品に分散して現れる。『フラニーとゾーイー』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』『ハプワース16、一九二四』のほか、『ナイン・ストーリーズ』にも三つばかり見つけることができる。読者はそれらを繋ぎ合わせ、この魅力的な一家に想いを馳せるわけだ。あるいは自身もこの兄弟姉妹のひとりであるかのように、やさしい長兄・シーモアを想うのである。なぜ自分にはシーモアがいないのだろう…と嘆息しつつ。

サリンジャーは次男・バディに自身を投影していたようだ。有名な隠遁生活の中で、グラース家のアクの強い連中に囲まれて、それはもう愉快に過ごしていたのに違いないと、僕はそんなふうに想像したい。亡き兄を慕いつつ、泣いている妹を思いやる、グラース家の人々のなんと尊いことか。――グラース家の人々に触れずして、サリンジャーを語るべからず!(綾透)

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