日々の泡沫(1)――採血と吸血の道徳哲学的課題について

以下、採血と吸血について論じる。
血の話、もしくは「血」という漢字そのものを見るだけで卒倒してしまう方は、速やかに本稿を閉じることをお薦めする。すでに「血」という漢字が(見出しを含め)六回(これが七回目)も登場したあとでそんなことを言われても……と困惑されるかもしれない。あるいはすでに卒倒されてしまった方もいるやもしれぬ。すでに卒倒されてしまった方には僕の配慮の至らなさを平にお詫び申し上げたい。

さて、僕は(男性としてばかりでなくヒト一般としても)かなり腕が細い。子供の頃から運動神経はよかったし(小学校ではいじめる側にいたという意味だ)、体力不足を指摘されたことはこれまで一度もない。肺活量などは平均値の1.6倍ほどあったりもする。が、とにかく腕が細い。
腕が細いと、採血に苦労する。一般には採血なんて(献血オタクを除けば)年に一回の健康診断でする程度であろう。だが、僕は六年ほど前にパニック障害からの鬱病併発に陥って薬を飲み始め、今も二種類の睡眠薬(導入と持続)を飲み続けているために、三ヶ月に一回くらい採血をする。
クリニックには採血の専門家がいる。だが、針を刺す部位を見つけられないことが多い。専門家は、毎回必ず両腕を見比べる。手を握ったり開いたり、皮膚(ひじの内側あたりだ)をこすったり、あれやこれやでなんとか採血可能な(と期待される)部位を特定する。それでも三回に一回はやり直しになる。やり直しとは、血液が刺した針を上がってこないために、左手を諦めて右手にチャレンジするとか、まあ、そんな話だ。

僕の腕はそれくらい面倒くさいので、蚊もやはり僕に針を刺すことに苦労し、多くは諦めてターゲットを変える。……なんていうことは起こらない。誰かと一緒にいて、僕だけ刺されない(あるいは刺されないまでも頻度が低い)などということはない。あっても良さそうな気がするし、あればちょっとした話のネタになるし、聴く人間も面白かろうと思う。
つまり、採血と吸血は、どうも異なるアプローチをしているらしい、と推察されるわけだ。むろん採血の専門家の方々は、専門家となる過程に於いて、蚊の吸血メカニズムに関する研究成果の数々を、眠い目をこすりつつ閲覧しているはずである。なぜなら、「SPY×FAMILY」でヘンダーソン寮長がエレガントにおっしゃっていたように、人類史上、もっとも多く人類を殺してきたのは、(むろん媒介者としてだが)ほかならぬ蚊であるからだ。
しかし、採血は吸血のようには、うまくいかない。
過去に二度ばかり、腕の内側ではなく、腕の外側で採血したことがある。日焼けしにくいほうではなく、日焼けしやすいほうという意味だ。あるいは体毛が薄いほうではなく、体毛が濃いほうという意味だ。(日焼けと体毛濃度は密接に関係しているだろう)
「腕の外側で採血するのはこれが二度目です」
「あ、それきっと私ですね、思い出しました」
なんて会話を交わたのを憶えている。そこから「一緒にお茶でも飲みながら採血の苦労についてお話ししませんか?」との展開にはならなかったけれど。

では、採血と吸血とは、どのようにアプローチが異なるのか?

第一に、採血者は被採血者のために採血行為に臨むのであり、吸血者(蚊のことだけれど)は己自身のために吸血行為に臨む。
吸血するのは雌の蚊が子孫を残すために、高い栄養価を求めてのことであるらしい。こうした進化論的説明が伴う行為に関しては、どうすればそんなことができるのだ?と怪しみ訝しむほどの現象と出会うのは、皆さんもよく経験されているものと思う。
では、採血者のほうはうまく採血できなくても困らないのかと言えば、そんなことはない。うまく採血できなければ、職を失う。従って採血者と吸血者とは、どちらもその主たる行為が死活問題である点に於いて共通する。

第二に、吸血者(蚊)は被吸血者(人)によって叩き潰されるリスクがある一方で、採血者(人)は被採血者(人)によって殴り倒されるリスクはほぼ無いに等しい。
まったく無いとは言い切れないけれど、採血者における採血行為は、決して命懸けの仕事には分類されていない。が、吸血者にとっての吸血行為は、まさに命懸けのチャレンジである。

第三に、採血者は被採血者に「はい刺しますよ?」と断ってから刺すのに対し、吸血者は被吸血者に気取られぬよう、こっそりと刺す。
これは第二の違いから自ずと導かれる話だ。
採血者が被採血者から殴り倒される可能性が生じるのは、間違いなく、「はい刺しますよ?」との断りなく刺したときであろう。僕もさすがに殴り倒すまではしないと思うが、少なくともやや気色ばむだろうことは容易に想像できる。
他方で吸血者は、こっそりやらないことには叩き潰されてしまう。だから当然こっそりやる。こっそりやるからさらにいっそう憎まれる。だからと言って「はい刺しますよ?」に相当する事前アナウンスをしたところで、「はいどうぞ」と腕を差し出してはもらえないわけだが。

以上、このように採血者と吸血者のあいだには、そのアプローチにかなり大きな違いが見出されるのだ。
○採血者にとっての採血は、被採血者のためであり、命懸けの行為ではなく、事前の了解を得て行われる。
○吸血者にとっての吸血は、己自身のためであり、命懸けのチャレンジであり、事前の了解を得られる可能性が低い。
言ってしまえば、気構えがまったく違うのである。この気構えの違いが、採血の失敗率と吸血の成功率に反映されていると考えていいだろう。
もちろんだからと言って、被採血者(僕)は採血に臨む際、左手を採血者に差し出す一方で、右手にバールのようなものを握ってチラつかせれば、採血の成功率が上がるという話ではない。
なぜなら、被採血者(僕)は、採血者のために腕を差し出しているのではなく、己自身のために腕を差し出しているからである。時々そうではない気がしてくるのは事実だとしても……。

ところで、「一寸の虫にも五分の魂」という諺がある。現代の先進的な道徳教育の結果、我々は文字通り「一寸の虫」を殺すことにも躊躇うようになった。が、例外が二例ある。すなわち、蚊とゴキブリである。
一寸は(日本では)約30㎜であり、従って五分は(日本では)約15㎜であるから、蚊に用いるには大きすぎ、ゴキブリに用いるには小さすぎる尺度だけれど、まあ、諺というのは計測の厳密さを問われるものではない。
本来この諺は、「だから無闇に小さな虫を殺すものではない」との仏教的な戒めばかりでなく、「どんなに弱い立場の者にも考えがあるのだから無視してはならない」との意味合いも付随して成立していた。しかし現代では自然愛護的な文脈でしか使われなくなっている。
先進的な道徳教育が、共感の範囲を拡げたからである。

共感というやつは、喩えてみれば、己を中心とした同心円みたいなものであり、人は文明化すると、その円周(ここでは半径)が大きくなる。先進的な道徳教育はこれを大きくするのが狙いだと言ってもいい。それがいよいよ蚊とゴキブリのちょっと手前にまで押し広げられてきた。
今はまだその手前で止まっているわけだが、いずれ蚊とゴキブリを呑み込むかもしれない。そうなると、蚊の吸血はもはや命懸けではなくなるであろう。そうなると、蚊はもはやこっそり吸血する必要もなくなるであろう。そうなると、採血の専門家の方々が、専門家となる過程に於いて、蚊の吸血メカニズムに関する研究成果の数々を、眠い目をこすりつつ閲覧するカリキュラムは削られるであろう。
すなわち、共感の同心円が蚊までをも呑み込んだ暁には、蚊はもはや、採血者にとって、学びの対象ではなくなってしまうのだ。そのとき、採血の専門家がなにを学習データとすればよいか、我々は今からよく考えておく必要がある。特に、僕のように腕が一般よりかなり細く、故に採血に失敗されがちな人間にとって、これは極めて重大な課題となるであろう。(綾透)

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