六歳

六歳まで過ごした町に行ってきた備忘録

 これは自分のための備忘録。記事を書く練習をかねて見出しとか使ってみていますが、あまり意味はない。

 2019年4月、久しぶりに大阪へ帰った。その際、少し前から気になっていたことを実行した。
 幼い頃を過ごした場所を訪ねてみることにしたのだ。
 これはそのときの行動記録である。

幼い頃の記憶

 レポートの前に、その地での記憶のあらましを記しておく。
 わたしは大阪府堺市で生まれ育った。遅い結婚をして千葉にくるまで、ずっと堺市で暮らしていた。
 生まれたのは堺市の、現在の北区(当時は政令指定都市ではなく区は存在しなかった)、JR堺市駅と地下鉄北花田駅の中間くらいに位置するだろうか。

 うちは持ち家ではなかった。父は結婚する直前まで定職に就いていなかったらしく、お金もない。同居する実家もなかった。父の実家は元は人形の製造販売をしていたらしいが、倒産している。

 よって新婚の両親が最初に暮らした家は小さなアパートだった。わたしが生まれてしばらくして、別のアパートへ移った。おそらく、少しは最初の部屋よりも広かったか、駅が近かったのだろう。

 わたしの記憶が始まるのは、両親が最初に暮らしたアパートではなく、その次に住居として選んだアパートである。
 わたしはここで、小学校に入学する直前までを過ごした。

 道に面して大家さんの家があり、通路を隔てて隣にはよく遊んだ子の家、その隣は覚えていないけれど、その隣は確か床屋だった。わたしが住んでいたのは、大家さんの家のブロック塀沿いに短い通路を進んで、奥には五世帯分の住居があった。

 大家さんの家を左手に見てブロック塀沿いに進み左に曲がると二部屋、右に三部屋。わたしが暮らしていたのは左に曲がってすぐの部屋だった。

 六畳二間と小さな台所、玄関はコンクリートで上がりかまちは妙に高く、部屋の角に変な角度で無理矢理とってつけたようなトイレのある住居だった。お風呂はない。近所の銭湯に行く。

 玄関前には洗濯を干せるスペースがあり、その下には植木を置いていた。朱色のゼラニウムが植わっていた。いや、ベゴニアだったか。母がベゴニアが好きだと言っていたのを覚えている。だけど、植物を育てるのが上手な母が、何故かベゴニアはすぐにダメにしてしまう、とも言っていた。母は100均で買ったテーブル椰子を、9号鉢(直径27センチくらい)植え替えなければいけないほどに育ててしまう猛者である。ちなみにわたしは植物を育てるのはまったくダメで、すぐに枯らしてしまう。最近ではもう諦めてフェイクグリーンを置いて満足している。

 玄関の正面は田んぼで、境目には高いフェンスがあった。フェンスには、夏になると朝顔が蔓を伸ばしていた。フェンスの向こうの田んぼでも遊んだ記憶がある。
 アマガエルを捕まえてきて部屋に放ち、乾いてはいけないだろうと水を撒いた。それを見つけた母が悲鳴とも怒声ともつかない声を上げたのを覚えてる。カエルを湿らせてやろうという幼女の優しい心は、水浸しの部屋を掃除をしなければならない母には届かなかったようである。

 家にはインコと熱帯魚がいた。インコの夫婦は家で卵を産み、孵った雛も育ってにぎやかだった。名前はもう覚えていないけれど、可愛がっていた。 一羽、無精卵を産んでしまう子がいた。抱卵しているインコから母が卵を取り上げるのを見て、可哀想だなと思ったのを覚えている。調べてみたら無精卵はすぐに取り上げないほうがいいらしいのだが、当時はそんな知識はなく……というか、当時は取り上げるのが正しいとされていたのかもしれない。それに、無駄に抱卵する姿も不憫だ。水色と黄色の羽根を持った可愛いインコだった。熱帯魚にはあまり思い入れはない。

 この頃のわたしは、仮面ライダーとリカちゃん人形を同時に愛で、お絵かきとレゴブロックが好きな幼児だった。なんの仮面ライダーかは年齢がばれるので秘密である。
 母にレゴで仮面ライダーを作れとせがみ困惑させた。母は「りっちゃん作ってみて?」と言って無理難題を回避した。そのときわたしが作ったレゴの仮面ライダーはブロック三つを重ねただけの物だったらしい。幼児の想像力って無限ですね。母は絵が上手で、少女向けアニメの可愛らしい絵も仮面ライダーも描いてくれた。
 弟が生まれ、手狭になったからだろう、わたしが小学校に入学する前、我が家は同じ堺市内にある団地へと引っ越した。そこでわたしは、結婚のため千葉へやってくるまで暮らしていた。

駅前の風景

 幼少期を過ごした場所にそれほど愛着があったわけではない。恐らく、長い間その場所のことは思い出しもせずに過ごしてきた。
 だけどふと、一度あの場所を訪ねてみようと思った。どれほど変わったのか、もう何一つあの頃の物は残っていないのではないか、それを確かめようと思ったのだ。そう思い至ったのは、年齢を経たからなのか、故郷を離れて暮らしているからなのか、わからない。
 とにかく、帰省のついでにちょっと寄ってみるかなという気になったのだ。

 堺市駅を降りてすぐに商店街がある。もちろん、店はほとんど変わってしまっている。ケーキ屋さんも本屋もハンバーガーショップもない。小鳥屋さんもない。漫画がたくさん置いてあった本屋はカラオケ屋になっていた。昔と変わっていないのは、果物店と銭湯くらいだろうか。

 その二つが今も営業していることに驚いた。駅についたのは午前中だったので残念ながら銭湯は営業時間前だった。だけど実はこの銭湯はあまり利用したことがない。当時はわたしが覚えているだけで駅から家までの間に三軒ほど銭湯があったのだ。

 実は堺市駅前を訪れるのは、幼少期以来、というわけではない。祖母が堺市駅近くに住んでいたし、母が通っていた絵画教室の作品展を見に行ったり、わたしが一時期通っていた病院もこの辺りにあった。なので、駅前の記憶は比較的鮮明にある。作品展も病院も線路を隔てて反対側ではあったが。

おばあちゃんち

 まずは祖母が住んでいたところに行ってみようと、歩き出す。祖母の家は、当時わたしが住んでいたところから多分、大人の足なら十分もかからない。祖父はわたしが生まれてすぐくらいに亡くなって、祖母は一番下の息子と暮らしていた。その息子、わたしにとっては叔父は、わたしの幼い頃に亡くなった。確か、三十歳くらいだったと思う。本が好きな人だった。叔父の死後、星新一の文庫を何冊か譲ってもらって読んだ。
 その中で一番記憶に残っているのは妖精配給会社で、今思い出しても不気味な話だったと思う。その中に出てくる妖精のビジュアルは何故かどきんちょ!ネムリンに脳内変換され、わたしにとってはネムリンはとても不気味な存在となっている。(ちなみに観たことはないです)親は星新一をちょっとシャレの利いた子どもでも読める短い小説と思っていたようだった。

 駅前を離れるとさらに風景は変わってしまっている。線路沿いにあったどこかの会社の社宅だったところは、団地になっていたものの、敷地はだいたいそのまま。よくお菓子を買ってもらった店はなくなっていたけれど、内科医院はあまり変わっていなかった。団地を左手に見て進むと地下の駐輪場があって、それを右に曲がってしばらく歩くと……あった。
 当時とほぼそのままの、祖母が住んでいたアパートがあった。大家さんの家があり、その奥にいくつか扉が並んでいる。壁は塗り替えていあるけれど、大家さんの家の雰囲気は変わっていないように思う。

 祖母が住んでいたときには、ブロック塀を隔ててもうひと棟、アパートがあった。手前にスピッツを飼っている家があり、よく吠えられたのを覚えている。そのスピッツがいた棟はなくなり、新しい家が建っていた。

 祖母が住んでいた部屋は、誰も住んでいない様子だった。しかし、恐ろしいほど祖母が生きていたときと変わっていなかった。扉も壁もあれから塗り替えられた様子はなく、キッチンの窓につけられた柵は錆びついていた。 祖母が住んでいたときは、最初はお風呂がなく、あとから無理矢理ユニットバスのようなものがついた。トイレは不定形の丸っこいタイルが敷き詰められた和式だった。六畳二間と小さな台所、奥には土間がついていた。なんのためのスペースかよくわからないけれど、昔はここに犬がいた。みんなロクと呼んでいたが、本名はロックという。叔父が名づけたのだが、祖母には発音しにくかったのだろう。ロクは雑種の大人しい犬で、叔父が亡くなったあとはほとんど散歩もさせてもらえなかったと思う。子どもの頃は意識が薄かったけど、今思い出すと可哀想だったなと思う。

いよいよ、本命

 祖母の家は確認できた。次は自分が住んでいた場所に向かう。ここからが問題。六歳までの記憶しかない。祖母の家には行くけれど、わざわざ前に住んでいた家に行ってみようなどとは、大阪にいた頃には思わなかった。

 じゃあなんで今さら行ってみようという気になったのかというと、やはり大阪を離れたことが大きいと思う。気が向けばいつでも行ける場所ではなくなった。あとは刻々と変わっていく風景が、今ならばまだ僅かにでも残っているかもしれないと。

 本当に辿り着けるかどうか不安だったけれど、歩いてみるとだんだんと朧気ではあるけれど記憶が蘇ってくる。祖母の家から一番近かった公園は、遊具などはなくなって、フェンスに囲まれた空き地になっていた。フェンスは昔からあった。車道が近いからかもしれない。公園だった空き地を過ぎるとガレージがある。ここはあまり変わっていない。それから小学校。これももちろんほとんど変わっていない。その向かいにまた公園。

 いくつくらいの頃か、本当の記憶なのかどうかもわからないのだが、小学校の近くで女の人が血を流して倒れているのを見た。わたしは母に手を引かれていて、母はものすごく早足でその場所を通り過ぎようとした。救急車のサイレンが聞こえていたような気がする。長い黒髪で、たぶん淡い色のワンピースを着て、俯せで倒れて腕だけが微かに動いていた。腕には血がついていた。アスファルトも黒く濡れていた。怪我なのか事件なのかわからない。 正直なところ、幼かったわたしには何が起こっているのかさっぱりわからない。ただ、女の人が倒れている映像だけが強く強く焼きついている。

 その場所を通りかかって、その光景が鮮やかに蘇った。怖い記憶ではないけれど、あの人は大丈夫だったのかなと今でも思う。

 怖い記憶といえば、同じくその小学校の向かいの公園のそばを歩いているとき、母が話したことがとても怖かった。猫の死体を見ても可哀想だと思ってはいけない。可哀想だと思うと取り憑かれるから。母がどうして急にこの話をしたのかはわからないけれど、とにかく怖くて、可哀想だと思わないって、できるかな……ととても不安だった。

 そんな記憶が導き出された場所を通り過ぎ、すっかり変わってしまった住宅街を歩く。新しそうな家が建ち並ぶ。わたしが住んでいたところはもうないかもしれないなと思った。もしあったとしても、建て替えられたりして懐かしい気持ちにはならないんじゃないかな、と。なくなっていたとしても仕方ないな。もうないんだということを確認できるだけでもいいや。そう思っていた。

 だけど、あった。

 大きめの道路に面して大家さんの家があった。当時のまま……とまではいかないけれど、あまり変わった様子はない。ブロック塀はそのまんまだった。通路を隔てて三件の商店があった。一番右は床屋だった。シェードはさすがにそれほど古くなさそう。くるくる回るサインポールはずいぶん古く見えた。

 懐かしさを求めて行ったのだけど、正直ちょっと、変わってなさすぎて引いた。道路を渡って近づいてみる。ブロック塀の前でよく遊んだ。大家さんの家の裏側がわたしたち家族が住んでいた部屋だ。

 あった。これもほぼそのまんまだった。扉の感じとかも変わっていないと思う。住んでいた当時は母が植物を育てていて雑多だけど賑やかに緑や花があった場所は、ずいぶんと荒れていた。洗濯物を干すポールは錆びついていたけれど、これは前からそれほど綺麗なものではなかったような気もする。田んぼだったフェンスの向こうには、新しい家が建っていた。

 今は誰も住んでいないみたいだった。郵便受けらしきものには、何か書類みたいなものが詰まっていた。

 通路の反対側には三世帯分の部屋があった。そちらは自転車が置いてあって、誰か住んでいる様子だった。ここのどこかに住んでいた子とは、中学生くらいまで手紙や年賀状のやりとりがあった。一番手前の家でお茶を出されたとき「おぶ」と言って笑われた気がする。「おぶ」とはお茶のことだ。祖母は京都の人で、お茶のことをそういっていた。この「ぶ」は「ぶぶ漬け」の「ぶ」だ。多分。

近くも散策してみる

 ついでなので、よく行った銭湯や市場も探してみることにする。スーパーではなく、市場である。一つの建物に、豆腐屋、惣菜店、八百屋などが入っていた。商店街を一つの建物にまとめたような感じだった。ここはさすがになくなっていたが、あった場所はわかった。土地の形がほぼ同じまま、レンタルショップになっていた。

 銭湯だった場所はわからなかった。銭湯自体はもうなくなっているのだと思う。更地にして家が建ったのだろう。

 だいたい目的は果たしたので、とりあえず探索は終了。北花田駅に向かうことにする。こちら側はそれほど覚えていることはないだろうと思っていたのだが、歩いてみると、確信は持てないもののうっすらと見覚えのある場所がある。団地の入り口の感じとか、八百屋とか。父の自転車の後ろに乗って通ったかもしれない。歩いてみて初めて、あ、知っているかも、と思った。

探索を終えて

 今回の探索は、実は行く前にとても迷っていた。行ってどうなるものでもないし、変わってしまっているだろうし、何より同行してくれる夫にとってはつまらないだろうし。

 だけど、行ってみることを強く勧めてくれたのは、夫だった。
 結果、行ってみてよかったと思う。幼い頃の風景の名残は、もしかしたら明日にでも失われるかもしれない。ギリギリ、間に合ったのかもしれない。 そんなふうに思った。高い交通費をかけて帰省してやることじゃないって思ってたけれど、ずっと堺に住んでいたら、改めて訪れることはなかったかもしれない。

 見慣れた風景は、いつまでもそこにあるような気がしてしまうけれど、少しずつ、或いはある日突然、失われてしまう。

 ……まぁ、実はわたしはそれほどセンチメンタルな性格でもないので、だから失われる前に思い出の場所に訪れてみましょうなどと結んだりはしないのですが。

 ノスタルジーに浸って楽しいプチ冒険の一日でした。

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