母親としての複雑な思いを口にできない辛さ
Facebookに何気なく流れてきたこの投稿・・・
ズシっと来ました、、、。
なぜなら、
母親になれたことは、とてつもなく大きなギフトである一方で
だからこそ、言ってはいけない、タブーとして無意識に封じ込めている
「一人の人間としての心の声」が自分の中にもあることを自覚したからです。
子どもがかわいいと思えない時がある
母親だから、自分のことを優先してはいけない
自己犠牲感を感じる、でも、それを言ってはいけない
「そんな風に思うことがあるよね、あってもいいよね」
今でこそ、社会の風潮も少しずつ変わりつつあって、優しい声をかけてくれる人もいるかもしれない・・・
ママ同志でこんな本音を共有し合うことで、気持ちが軽くなることもある
でも、、、結局は、
「自分の子どものことは自分で責任をもって解決しなければならない」
という重圧を常に背負いながら、一人の人間として感じる心の声を簡単に口にはできない、口にしてはいけない辛さがあるように思うのです。
「子どもがかわいいと思えない」「自分が子どものために犠牲になっている」なんて、少しでも思ってしまう自分は、自己中で冷酷、母性はあるのだろうか・・・
そんな自分を直視するのも避けたいし、口にしてしまったら、周囲から白い目で見られ咎められてしまう感覚すらあります。
元々、母親になることを強く望んでいても、自然な流れでそうなった場合でも、周囲からの期待に応える形でそうなった場合でも、
「実際に子どもをもってみたら、想像と違う現実だった」
ということも大いにあると思います。
不思議と「母親」になったら、
「女神のように、愛に満ちて、温かく、子どもを包みこむ母性を発揮して、子ども第一に自然となれるよね~」
という幻想がどこかにあるのではないかと感じています。
現実は、多くの母親たちが「そうあれない」ことに葛藤し、そんな「あってはならない自分」を封印しようと、ひたらすら抑圧し続けているのかもしれません・・・
私が母親になって感じた現実として、想像以上だったことは、
「とにかく常に頭も身体もアクティブでいなければ務まらない、
張りつめた緊張状態」であることです。
子どもが乳幼児期の頃は
自分が「子どもの生命維持装置」であるがごとく
息しているかな?
泣き止まないって、どこか具合が悪いのかな?
無茶して遊んだり、ピューっと飛び出して、事故に遭うんじゃないか・・・
四六時中、緊張が解けない・・・
自分に母性を感じる瞬間も、もちろんあるけれど、
現実は「それどころじゃない」という毎日です。
もうヘトヘトで、半分思考停止状態という感覚すらあります。
子どもが大きくなったらなったで、今度は、
「私の母親としての役割がきちんと果たせなかったら
この子がちゃんとした子に育つのだろうか」という緊張感に見舞われる。
教育に必要な情報を取り逃してはならない
(「〇歳臨界期説」に煽られて、焦る)ちゃんとした教育機会を与えなければ・・・(親の采配次第という呪縛)
子どもの身体を思って栄養のある食事を用意しなければ・・・
(ファストフードとお菓子に喚起する我が子を傍目に危機感が、、、)
正直、本当にしんどかった・・・
私は、だいぶこの課題に向き合ってきて、こうして口にできるようになり、
母親としての様々な呪縛から解放されようと取り組んできましたが、
まだまだ声にできないママたちがたくさんいる現実があり、そこは何とかしたい!
今回、こうして課題として顕在化されたことには、意義があるのではないかと感じるとともに、私のコーチングの仕事の原動力でもあることを再認識しました。
『exit 消耗ループ=消耗ループから抜け出して軽やかに生きていく!』
最後までお読みいただきありがとうございました。
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