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障害当事者とは誰なのか?

こちらのnoteを拝読して、考えたことがある。

私としては、障がい者という表記は使うことはあまりない。状況によっては使わざるを得ないこともあるのだが、積極的に使おうとは思わない。
それはなぜか?
私が大学に入ったのはちょうど「障害児教育から特別支援教育へ」という時代の始まりであり、障害者差別禁止法や合理的配慮などの概念が社会に登場し、発達障害にもスポットが当たるようになってきたころだった。
その中で少しずつ「障がい者」という表記を目にするようになる機会が多くなった気がする。

私はそれがなぜなのか気になり、「障害」という言葉を辞書的に調べた。

①物事の成立や進行を邪魔するもの。また、妨げること。
②身体の器官が何らかの原因によって十分な機能を果たさないこと。
 また、そのような状態。
③個人の特質としての機能障害、そのために生ずる制約としての能力低下、その社会的結果である社会的不利を包括する概念。
④障害競走の略。

では、「害」がひらがなになることによって意味は変わるのかと思ったが、意味は変わらない。

では、「障」と「害」単体ではどうだろうか?

【障】
邪魔、さしさわり、隔てるもの。
【害】
妨げ、支障、災い

感じ単体同士でもそこまで意味が変わるようには思えない。
ならば、いっそのこと「しょうがい」にしたらどうかとも思うが、それは私の論点とはずれるので、置いておくことにする。

難聴の方の書いた本で、最近の「障がい」という表記に対して、健常者とされる人々の自己満足に過ぎないのではないか、そう表記することで何かをごまかそうとしている感を覚える、というような主旨の文を見たことを思い出した。確かにそうかもしれない。
いわゆる健常者が、いわゆる障害者に対しての免罪符のような位置づけで使用しているように私の感覚的には覚えてしまうのである。

つまり、どこか「他人事」な気がしてならないのだ。

最近、「当事者研究」という言葉をよく聞く。
これは、東京大学先端技術研究センターの熊谷教授によって以下のように暫定的に定義されている。

病気や障害などの困りごとを抱える当事者が、困りごとの解釈や対処法について医者や支援者に任せきりにするのではなく、困りごとを研究対象として捉えなおし、似た経験をもつ仲間と助け合って、困りごとの意味やメカニズム、対処法を探り当てる仕組み

平たく言うと、当事者が自分の抱える困りごとについて当事者同士で考えてみよう、ということなのではないかあと思う。
今度はある意味、健常者が蚊帳の外に置かれてしまっている状態のような気がする。障害者と呼ばれる人々の周囲にいる健常者と呼ばれる人々は「当事者」ではないだろうか?
実際私は、かなり肩身の狭い思いをすることもある(笑)

当事者とは、「その事柄に直接関係している人」を指すらしい。
困りごとへの支援は、現在、ICF(国際生活機能分類)というモデルを医療・教育・福祉の各分野が共通言語として用いて考えるようになっている。
下図のような構造なのだが、これに則ると、その人が抱える「困りごと」というのは、すべての◯印と相互に関連しあっていて、どれかが独立しているということはない。

本人の現在の健康状態は、疾患や機能不全の状態活動状況・社会への参加状況に影響されるが、そこにはさらに、困り感を抱える本人のモチベーションや行動などの本人自身の要因も影響するが、より重要なのは、本人を取り巻く社会的環境という要因であり、それが活動や参加の規定要因となり、健康状態にも影響を及ぼしていくという見方ができるだろう。

すべての線に双方向の矢印がついているのが特徴である。
こうみると、社会(本人を取り巻く私たちという環境)もまた、直接的に関係する「当事者」なのである。

だから私は、「当事者に対して」などと言うことに違和感とためらいを覚える。本人とか、その人、とか使ってみるが、当事者に直されてしまうこともある。もどかしい思いをすることがなかなか絶えない。

けれど、私は他人事でいたくはない。
本質的に「共生社会」という概念を考えるとき、どれだけ「自分事」として捉えられるのかが大切だと思う。
明日、突如として歩けなくなるかもしれない、聞こえなくなるかもしれない可能性は誰の隣にもある。そう思うと、他人事でなんかいられない。

結局、自分を大切にすることと、他者を大切にすることは限りなく近い場所にあるのかもしれない。

字面で誤魔化して満足せずに、本当に「その人」や「その人の周囲」をエスコートしていけるような当事者でいられるよう、当事者と認識されるような姿勢をもって活動していきたい。


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