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【映画の感想】海獣の子供

(前半はネタバレなし、後半はネタバレありです)
※フィルマークスに投稿したものの転載

僕の中でスタジオ4℃は湯浅政明監督とのタッグの印象が強く、前情報をほぼ仕入れずにいたため鑑賞前はかなり前衛的な映像を覚悟していたのだけれど、それを完全に異なる方向から覆してくれた衝撃の映像体験。

海と空と人と宇宙を、これほどまでに多様で彩りあふれる形で表現することが可能だとは思いもよらなかった。「アツい」アニメ映画としては最近プロメアが話題だけれど、込められた熱量という意味ではこの作品も決して負けていない。

これはある意味で宗教体験に近いというか、誤解を恐れずに言えばかなりの悟り系映画と言える。一方で、特定の宗派に寄らないよう慎重な気配りがなされており、その制限の中でも荘厳かつ神秘的な表現を実現していることは素直に賞賛したい。思い出されるのは手塚治虫の火の鳥で、生命と宇宙の壮大なステージを独特な切り口と魅力的なモチーフで描いた意欲作。

なかなか手放しに人におすすめするのは難しいけれど、映像から何かを考察したい人にはおすすめです。普段は映画を観た後は感想サイトを巡るのが楽しみなのですが、本作は何も見ずにじっと考え込みたくなりました。
あとバナナフィッシュのアッシュが好きな人にもひっそりおすすめしたい(皆様の同意が得られるかは自信がないけれど)

【以下スペースの後にネタバレ&深読みです】





脳の構造と銀河系ネットワークが似ている、という言説を聞いたことがある人も多いと思うけれど、本作はそうしたミクロとマクロのフラクタル構造のような相似形を象徴的モチーフにしながら海、人、空(宇宙)を描こうと試みている作品、という印象を受けた。

地球を卵子、隕石を精子とするメタファー。その隕石を腹に宿した琉花と、その琉花を更に飲み込んだ鯨。印象的な大きな瞳と、同じ色をした宇宙や深海。夜光虫による空と海の天の川。人間の細胞一つひとつが銀河系であるかのような抽象的シーン。これらの相似形により、僕らの感覚の中で「大きいもの」と「小さいもの」の隔たりは薄れていく。クライマックスで琉花が「私が宇宙だ」と悟ったように。

母親との不和、クラスメイトとの喧嘩という世俗的な小さい問題と、世界全体を揺るがし宇宙にまで到達する大事件がシームレスに描かれる。またうみくんとそらくんの浮世離れした語り口も相まって、僕らは非常にスケールの大きな「祭り」へと巻き込まれる。

そこでたびたび描かれるのは「目」。登場人物達も大きくて印象的な目をしているけれど、鯨の目、鯨の身体についた目、変異したうみくんを囲む目などが次々と描かれる。

そもそも琉花が祭りのゲストに選ばれたきっかけは「見つけてもらいたくて光ることの寂しさ」を知っているからだった。母親との不和や、冒頭で「あいつは輝いているときが危ない」というような先生の台詞があったように、見てもらうためにもがいているような状況。

見る、というのは存在することを認めるということで、縁を結ぶための前提となる行為。だからこそ目のモチーフが多く出てくるのだろう。

そうしてうみくんと互いを見つけたうえで、更に両親による発見という形で日常に戻ってくる。母との和解と新たな命、クラスメイトとの仲直り。陸上を走る琉花の描写と、手に残る小さな水かき。

前述した構造と「宇宙と人間が同じ素材で作られている」という作中の台詞と照らすと、「問題の大小に関係なく全部大事なことなのだ」と伝えてきているような気がする。「手に握られた物語に潜む世界」という表現がラスト付近にあったけれど、それも「身の回りの出来事だって宇宙の真理を含んでいる」という相似形の言い換えのように思える。

物語の流れを抽象化するなら「壊れたものがそっと元通りになり、出会った人とまた別れ、宇宙を知り海を渡って地上に帰る。でもそれぞれが少しずつ前に進んでいる」というような。その場で回る銀河のモチーフに重ねて、上昇するDNAの螺旋のモチーフを使ったのもそういった意図なのかな、と思ったり。

小さな悩みも大きな事件も本質的な部分に立ち戻れば全て相似形で、誰もが部分でありながら全体でもあるがゆえに小さな手の中にも宇宙が宿る。だからこそ本当は独りではない。

日常の一コマは宇宙の真理で、僕らは宇宙の真理に少し意味を付け足すためにDNAの螺旋を上っている。命の意味とは互いに存在を見つけ、影響し合い、これまでとは少しだけ違う自分として生きること。みたいな。

いろいろとうろ覚えな部分もあるけれど、ここまであれこれと考えさせてくれた本作に敬意を表します。

#映画 #映画レビュー #海獣の子供

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