ジェンダー学は、自分と他人を理解するフィルターを増やしてくれる
ジェンダー学に限らず、
女性学や男性学にも言えること。
ジェンダーとは
「社会・文化的に構築された「女らしさ」や「男らしさ」」
のことをいうのだけど、
その「女らしさ」や「男らしさ」がなぜ、どのように、いつ作られていったのかを
経済学や社会学、時には心理学や哲学を用いながら
分析理解する学問を、ジェンダー学という。
私はもうかれこれ7年ほど、
ジェンダー学や女性学、男性学、今はフェミニズムを中心に
この界隈をうろうろしているのだけど
7年前の自分と今で明らかに違うのは
「自分と他者をみるフィルターが激増している」
ということ。
つまり、自分や他人、そしてそれを取り巻く社会の解像度が上がっている、
ということ。
今まで「女って●●」「男って●●」と考えてたのが
ジェンダー学を学ぶことで
「この「女って●●」という考え方は、この時代、この目的のために生まれた」という理解にかわり、
その理解は
「女って●●と言う考え方は、所詮便宜上作られたものだから
自分も気にしなくていいし、人にそれを求めてもいけない」
という感覚に変化していった。
そして、他者をみる時も
「この人はいつもハンカチを持ち歩いてて女子力高いな」
というタグ付けから、
「この人はいつもハンカチを持ち歩いてて、
きちんとした人だな」
という理解に変わり、
人をみる時に
「男だから●●」「女だから●●」と言うフィルターが、
どんどん外れていっている。
たしかに、
「男は●●」「女は●●」という言葉を使っていた時は
楽だったかもしれない。
でもその言葉は自分に返ってきて
自分自身を「女だから●●しなきゃ」と呪っていたような気がする。
1億人いれば、1億人分の性格や、「男らしさや女らしさ」で分類するには勿体無い
「その人らしさ」がある。
1人の人間の、「きちんとハンカチを持ち歩く」
「意見をはっきり言う」「スイーツが好き」
「強がりだけど弱いところもある」
そんな幾千ものレイヤーを、
「男らしさ」や「女らしさ」というたった2つのカゴに分類していた時は
なんて勿体無いことをしていたんだろう、と思う。
1人の人間の幾千ものレイヤーを、そのままに理解することは
その人自身を2つの分類に押し込めない、その人の人格を潰さないためにとても大切だし、
自分自身もそうやって理解してあげることで
自分の性格・人格の「成分表」を分析することが出来る。
ジェンダー学はそういう豊かなレイヤーも
もたらしてくれたと思っている。
おわり
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