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私にとって「フェミニストである」ことは、自分の中の「女性蔑視(ミソジニー)」と闘うこと

ツイッターでもよく書いているけれど、
私にとって「フェミニスト=女性差別と闘う!」はちょっと違う。

フェミニストである目的とか意義は、
個人で違って全然良い。

女性差別という対外的な問題と闘うことも良し、
なんか最近流行ってるからオシャレというのも良し。

そして私にとって「フェミニストである」ことは、

「自分の中に巣食う女性蔑視の思考と、
    女性である自分への自己嫌悪と闘い続けること」

なのである。

その闘う過程での私の発信や、
こうしたブログや、イベントで話すことが
結果として社会的なジェンダー平等に繋がれば御の字である。


私が大切にしているこの意義は、
数年前に読んだ上野千鶴子の『女ぎらい』で教えられたから。

女ぎらい

この中で上野千鶴子は、
「フェミニストであるということは、
自分自身の「ミソジニー」と闘い続ける女のことを言う」
(原文ママ引用できず、悪しからず)

と書いている。

当時、すでに大学院(ジェンダー学)を修了し、
ジェンダーについて話をすべくイベントに呼んでいただいていたけど、

フェミニスト=女性差別と闘う、というのはしっくり来ていなくて
私にとってフェミニズムは、もっと自分のためだと悶々としていたので
『女ぎらい』のこの一文を読んで、すぐにピンと来た。


フェミニズムを学ぶというのは、
自分の中の被害性だけではなく、
加害性(ミソジニー的な思考や行動)を内省する過程を伴うので
とても苦しいし、
「社会のために闘うこと」を第一の目標にするのは
あまりにも荷が重い。

だから私はこの本を読んだ時に、
「自分のために闘ってもいいんだ!」と、すごく楽になった。

フェミニストであることは
社会・経済構造や歴史を学び、
「女は●●」という社会で勝手に作られたイメージから自分を解放してあげることであり、

自分の中の加害性(ミソジニー)と向き合い、
向き合うことで、一つ一つ自分を、自分が与えられた女性と言うカテゴリーを蔑視したり、自己嫌悪に陥ることから解放してあげることである。


私はその過程で、
自分が思考を整理したり、自分自身をエンパワメントするプロセスを公表することで
社会の歪みが少しでも修復され、女性というカテゴリーにいる人たちが
女性であることを楽しみ、
持てる能力を発揮できる社会に結果として繋がればいいな、と願っている。


おわり

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