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ラーメンが、私は独りじゃないと教えてくれた

寒さが厳しさを増してきて、温かいものがより一層美味しく感じるようになってきましたよね。

去年の暮れになりますが、ラーメン屋さんに行ってきました。普段ラーメン屋に行くことが少ないから「お店のラーメン」というだけで、ちょっとテンションが上がっちゃう。

テーブルに運ばれたラーメンは、やっぱり家で食べるラーメンと違いました。

なると、チャーシュー、シナチク、のり、ねぎ、煮卵・・・私の場合の自宅ラーメンは麺とスープのみがほとんど。よくて、ひよこちゃんマークの即席ラーメンで卵を入れるくらいです。

特に私は肉類が好きだから、チャーシューを食べた瞬間、美味しさに感動して、ついチャーシューに思いを巡らせてしまいました。

「このチャーシュー、どうやってできているのかな」

ちょっと箸のペースをゆっくり進めながら考えてみました。

チャーシューとなる豚肉は卸業者から仕入れてラーメン屋さんに届くけれど、卸業者はどうやって豚肉を仕入れるのかな。そうだ、食肉として解体する施設から運ばれるよね。その前は飼育場で育てられている。

あと、味付けもしているはず。秘伝の調味料は、あらゆる調味料が合わさったものに違いない。その調味料たちだって、もともとはある材料から加工され、パッケージングされ、販売される。

そう考えたら、チャーシューって自然の流れではできるものではなくて、当然ながら人の力が加えられている。それも一人ではなくて、複数の人によって。

たくさんの人の仕事によって、チャーシューが誕生した。チャーシューができるまでに多くの人が働いてきたおかげで、私は美味しいチャーシューを食べられるようになった。チャーシューができるまでに働いた人たちと食べる人である私に、チャーシューという共通項がある関係性が生まれました。

なると、チャーシュー、シナチク、のり、ねぎ、煮卵、麺、スープもそうだ。この両手いっぱいで抱えられる器の中には、器が何個あっても入りきらない人たちの存在が凝縮されているんだ。私が食べるラーメンに、一体どれくらいの人たちが関わってきたのだろう。

ラーメンを作っている人は誰なのか私知りません。そして、その人たちも私を知らないはず。知らないもの同士だけど、ラーメンでつながってしまった。ラーメンを作ってきた人たちと食べる人という関係。生産者と消費者という関係と言えるのかもしれないけれど、美味しくて感動するラーメンを生み出してくれて、私を幸せにしてくれた人たち!と、私の中で勝手に関係構築しちゃった。

なんて、勝手に自分の世界の住人を増やしていた、ぼっちラーメンの時間。

でも虚しいなぁという気持ちはなくて、ほっこりした気持ちになれました。ラーメンが温かかったのもありますが。

人は支え合って生きていくというけれど、直接的ではなくても、こうやって一つのものを介しても支え合って生きていくことができるのではないでしょうか。

知らなくても、遠く離れていても、働いて生み出してくれたものを通じて私の生活を成り立たせてくれたり、より良くしてくれたりする。その人たちがいてくれたおかげで。

人と人との物理的な距離の隔たりに、寂しさや孤独を感じやすくなった今のご時世。でも、実は自分を見渡してみると、たくさんの人とのつながりが感じられるものに溢れていると気づけるのではないでしょうか。

ひとりでいても独りじゃない。

そう思えると、みんなで苦境を乗り越えられるような気がします。

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