精神力とかいう足枷について

いつも文章を書こうと思うタイミングは突発的だが、最近感じたことの健忘録的な場として綴って行きたいと思う。

一定の年齢を超えてから、自分とは何かを考えることが増えた。逆に、今まで驚くほど自分に興味が無かった。

少しづつライフステージとして周囲の環境が変わり、物事の捉え方や幅が広がり始めたことで、そもそも自分とはなにかということを考える機会が増えたんだと思う。

その中で、メンタルの強さはどこから来るのかということを、私はよく考える。

そもそもメンタルって何なのだろうか?メンタルが強い、弱い、そんな抽象的な概念を物差しにされて誰が納得すんねん、と思い始めていた。

きっかけは仕事で言われた一言だったとおもう。
「メンタルが強いっていいですね」

大前提として、私メンタルが強いなぁなんてありありと実感したことがない。
人並みに些細なことでくそほど腹立つし、傷ついたりもする。
別に、「そうだよね(>_<)そりゃあ女の子だし辛いよね(>_<)」と同情して貰いたい訳では無い。

ただ、改めて考えて気づいたが、私は人並み(かもしくはそれ以上に)腹も立てば傷つきもするが、
恐ろしいほど〝感情が残留しない〟のである。

冷静に今自分を見つめ直した時、何故か恐怖のようなものを感じた。
私は人の心がないのか? とすらも思えた。

一体この凪のような無に近い感情はなんなのか。思い返せば、昔からこうだったかもしれない。

中学で故郷の大阪を離れて、両親の仕事の関係で東京の女子高校に入学した。中高一貫の、いわゆるお嬢様学校だった。
元々公立の共学に通っていた私は、自分の身の丈に合わないと感じたが、それを口には出さなかった(高い金を払わせて親に申し訳ないと思ったのもあって、出さなかった、というより出せなかった)。
想像の通り、言語の違いやよそ者ということでバチくそいじめられた。
今思えばそこがはじまりだったかもしれない。
別に、「そんなつらいことがあったなんて(>_<)かわいそう、大変な中頑張ったんだね(>_<)」と同情してほしいわけでは無い。

まぁここまでは予想通りではあったし、こんなことは社会ではよくあることだ。

田舎の雑草根性なめんなよ、と拳で勝負したい日もあったが、箕面のおばあちゃんに「あんた、結局手を出した方が負けやねんで」と言われたことを思い出してぐっとこらえた。

そのうち、徐々に自己防衛が働くようになった。

悪口を言われた時、
「あなたはそう思うのですね。私とは価値観があいませんわ。」というテンプレートを、永遠に脳内でくり返していた。
華麗にスルーを決め込んでいくうち、相手は飽きて私をいじめることを辞めた。

このスルースキルがおそらく今に続いているのかもしれない。

もちろん、正当な批判は受け止めて己を顧みる必要はあるが、人様に迷惑をかけさえしなければ、自分が納得できるならそれでいいという、ある意味極めて利己的な結論に至った。

メンタルはある程度作っていけるものなんじゃないだろうか?
持って生まれた特性だったり、生きてきた背景で種族値が違うのは当たり前で、このスルースキルっていうのは多分、会得できるし自分に持たせられる。

私のこの精神力は足枷であり、常に強くいないといけないという強迫観念にも繋がっているのかもしれない。
ただそれでも、この精神力という足枷を得られたことは、人生においてはラッキーだったなとおもう。私にとって、この精神力は足枷であり武器でもある からだ。

これは自分だけで得られたことではなくて、もちろんある種環境の訓練で得たものもあるし、趣味や仕事でたくさんの人間に出会い、様々な価値観を知り、視野が広がったおかげでもある。
そしてハロープロジェクトとの出会い、これに尽きる。どんなことがあっても、推しに会えるかまあいっか!となれる。
この強靭な精神力を形作ってくれていること、改めて心から感謝したい。

今後も「あなたはそう思うんですね」精神を胸に、時には竹のようにしなやかに身をこなし、時にはそれを竹刀として、自分の弱さや不条理と戦う武器にして行けたらいいなと思う。

今の人生があっているのかはよくわからないけど、これからも自分が納得出来る人生にしていきたい。

そんなことを、春の人身事故の影響で止まってしまった電車内でつらつらと綴っている。
この仕事を初めて今年が8年目。どこかで誰かの役に立ててること願って。





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