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人生にせよ、芸術にせよ


焼き鳥と劣等感

少し前のこと、多治見の窯元を訪ねた。
私にとって「窯元」というと、レジェンドのような、少し敷居が高いような緊張感がある。せとものの文化を繋いできた人々という敬意のあまり、なかなか足を踏み入れられなかった。それは、私が”本物“の歴史に触れて来なかった余所者のような劣等感からだ。

2か月前に遡る。陶芸仲間と飲んだときのことだ。
夕方のまだ少し明るさの残る頃、古民家を利用した店構え、炭火焼、間違いない焼き鳥屋に集合した。
ひとしきり盛り上がった頃、つくねが運ばれてきた。たっぷりのたれと艶々な卵黄に目を奪われ、たまらない気持ちで串に手を伸ばしかけた瞬間、頭の向こうから声が聞こえてきた。
「前に、多治見に行ったんですよ・・」
私の手は止まった。

「窯元に行きたい。行かねば」の絶好のタイミングが訪れた。
1人だって行けるけど、ちょっと勇気がいるし、3人も旅の仲間がいるなら最高だ。酔っぱらいながら日取りを決めた。

住吉窯合宿にやってきた

工房

出迎えてくれたのは、小木曽 教彦先生。
作家活動をしながら、この工房に国内はもちろん海外から合宿を受け入れることもされている。私たちが訪れた後は、台湾や韓国にも教えに行く予定だとか。80歳を越えて現役。そしてチャーミング。

いつも、じゃないこと

私はヨーロッパに強い憧れがあって、デンマークでTortus Copenhagenのワークショップに参加したことがあった。その後、海外の人との交流も多くなってから、外国から日本へ陶芸を学びに行く人も多いと聞いて、在り来たりだけど足元の見え方が変わった。劣等感に押されるように今更だけど日本に目が向き始めた。

そんな意識もあって、多治見で穴窯で志野焼を作らせてもらえるのは楽しみだったし、いつも自分ではやらないこと、できないこと、選ばない土、作り方、焼成、違うことをやってみたかった。

志野焼は、優しい乳白色に、ほんのり赤みがかったぽってりとしたもの。電動ろくろは使わずに、手びねりで茶碗を作った。「もぐさ土」は元々美濃地域で採れる原料だけど、例にもれず今は残念ながら少なくなり、高価なものになっている。土は桃色がうすく入ったような色で、粘り気は多くなく、サク味があって手で触れた心地がふんわりとしていた。ほっぺみたいにやさしい雰囲気の土。

形作る、空をつかむ

自然に任せて手を動かして形作っているのに、正面が決まり、良し悪しがある。作為のないところにお茶の心や目線があり、意図として作られる。
黙々と作っては、崩し、また作るを繰り返す。
形にすることはできても、心持ちは空をつかむような感覚。
2日間の滞在で削りまで納めようと、夕食のあとも工房でほろ酔いながら、なんてことも無い話をし作業ができたのは、最高によい時間だった。

ここから素焼きへ

人生にせよ、芸術にせよ

私たちが工房にお邪魔している間にも、何人かが来ては作陶し帰っていった。日常に陶芸ができる場所があって、陶芸家ではなくても町の人がふらりと気軽に来れるっていうのは豊かな風景だ。

岡倉天心の「茶の本」を住吉窯の光景に重ねて思い出していた。
何箇所も折り目をつけて線を引いてある。現代社会に埋もれて育った私にとって、美意識を掘り起こしてくれるような、ずっと傍に置いておきたい一冊。

真の美と言うものは、不完全なものを前にして、それを心の中で完全なものに仕上げようとする精神の動きにこそ見出されるというのである。
人生にせよ、芸術にせよ、これからさらに成長していく可能性があればこそ生き生きしたものとなるのだ。

新訳 茶の本 岡倉天心 訳・大久保喬樹 角川ソフィア文庫

「人生にせよ、芸術にせよ」と前置きされているフラットな感覚が素晴らしくて、安心したことを覚えている。

帰り道、昔の時代の話が聞き足りなくて後悔した。
何かの待ち時間に小木曽先生に訊いたことを思い出す。

「どうしたら、長く陶芸を続けられますか?」
「そりゃあ、いい人と出会うことじゃないかな。」

こんなわずかな時間で何かを得られたかといえばわからないけど、怖がらずに行ってよかった。
穴窯への窯入れは、まだ何カ月も先のこと。
その時にまた訪れよう。


ランチのカレー
スイカもうれしい

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