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「何をするか」より「なぜそれをするか」を考えると、うまくいく思考パターンが身につく

本記事はブログ「ayan's style」に2015年に書いた記事を移行したものです。

「結果を出すためには、何をすればいいのでしょうか?」

「どうしたらPVが増えますか? どんなコンテンツを作ればいいですか?」

「○○さんは、いまどんなことをしてるんですか?」

こんなふうな質問をときどき耳にします。私自信が直接訊かれることはほとんどありませんが、ネットを見ていると、そういう質問をする人が少なくないのに気づきます。

そうした質問の答えに、ハッとするような素晴らしいヒントがあるかというと、そんなことはなく、質問された人(たいていすでに結果を出している人)は、少し困ったように、「それは人それぞれだから……」というようにお茶を濁している気がします。

彼らは意地悪や出し惜しみをしているわけではなく、「その質問に対して適切な回答をすることが不可能」だとわかっているから、そうとしか言えないのではないかな、というのが私の考え。

少し厳しい言い方をするなら、「その質問では、答えることができない」というのが正しいかもしれません。

ここで、私が昔読んだ本の中に載っていたお話を紹介します。

アメリカの田舎に、若い夫婦が仲良く暮らしていました。夫の誕生日、妻は得意料理のローストビーフを作ったのですが、牛肉の塊をオーブンに入れる前に、なぜか塊の両端を包丁で切り落としました。それを見て不思議に思った夫は、「どうして端っこを切り落とすんだい?」と尋ねました。

すると妻は「知らないわ、だってお母さんもこうしていたから」と答えました。

後日、夫婦が、妻の実家へ泊りがけで遊びに行ったときのこと、夫は気になっていたことを妻の母に尋ねました。

「お義母さん、どうしてローストビーフの端っこを切り落とすのですか?」

すると、妻の母は言いました。

「あら、どうしてかしら。私の母も同じようにしていたから、私もこうしているの」

いよいよ気になって仕方のない夫は、妻の祖母を訪ねていって質問しました。

「おばあちゃん、どうしてローストビーフの端っこを切り落とすのですか?」

すると、妻の祖母はにっこりと笑ってこう答えました。

「それはね、昔のオーブンは小さくって、そのままだと入らなかったからですよ」

「何をするか」だけを見ていると、本質を見失う


上のお話に出てくる妻、そしてその母は、祖母が「何をするか」は見ていました。でも、「なぜそれをするのか」を考えなかったのでしょう。よくわからないけれど、おばあちゃんも端っこを切り落としていたから、同じことをしておこう…と。

でも、もし「なぜ塊の端っこを切り落とすのか」という理由、なぜそれをするのかという根拠に思いを巡らせたら、気付くことができたかもしれません。(おばあちゃんに直接訊いてもよかったでしょうし、想像だけでも答えに近づけたかもしれません。)

人は、無意識のうちに「これはこういうものだ」と、理由もわからずに思い込んでしまうことがあります。ですが、このお話のように、「これはこういうものだ」と思っていたことが、実はまったく意味のないことだった、という場合もあるのです。

「自分には何もとりえがないから、能力を生かした仕事なんてできるわけない」とか、「自分には小さな子がいるから、自分自身の生活を楽しむなんてとても無理」とか、「自分は太っていて見た目が良くないから、異性に愛されるはずがない」とか、「自分ひとりが何かをしたところで、世の中が変わるわけじゃない」とか。

それって、実はローストビーフの端っこのお話と一緒で、単なる自分ひとりの思い込みに過ぎないのかもしれません。

個人的には、このことは、サイト運営にも、アフィリエイトにも、ひいては人生にも当てはまることだと思っています。

結果を出している人を見て、羨ましく思い、憧れ、自分もあんなふうになりたいと思う、その気持ちはよくわかります。でも、その人たちのしていることを真似るだけでは、その人たちと同じ思考パターンを身につけることはできません。

「学ぶ」という言葉は、「真似る」から来ていると言います。丸々コピーは言語道断ですが、先人のなしたことに影響を受けない人なんていません。

それでも、真似るのであれば、表面的なこと(何をするか)ではなく、本質的なこと(なぜそれをするのか)を真似て、自分のものにしていけば、結果は変わってくるはずです。

表面的なことは応用がききませんが、本質的な部分は、自分の中で変質させて、さらに良いもの、自分に合ったものに進化させることも可能です。

「それってアリなの!?」は柵の中の思考


長くなりましたが、ここでもうひとつ、お話を例に挙げます。かの有名なコロンブスの卵のお話です。

ご存知の方も多いと思うので簡単に書きますが、「大陸発見なんか(船さえ進めれば)誰にでもできたことじゃないか」と言われたコロンブスが、テーブルの上のゆで卵を取り出して、「誰かこれを立てることができる者はいるか?」と尋ねました。

だれもコロコロと転がる卵を立てることができないでいると、コロンブスが卵の尻を叩いてつぶし、立てて見せた……という逸話ですね。

「誰にでもできそうなことでも、最初に行うのは難しい」という教訓を含むお話だと思いますが、その場にいたコロンブス以外の人たちは、きっとこう思ったのではないでしょうか。

ずるい、それってアリなの!?」と。

コロンブスは、「卵のお尻を叩いてつぶしてはいけない」とは言いませんでした。なので、この方法はルール違反ではありません。にもかかわらず、ほかの人たちが「それってアリなの!?」と思ったのは、コロンブスのやったことが、彼らの思いもよらないこと(想像すらできないこと)だったからでしょう。

牧場の柵に囲まれたエリアで暮らしている羊たちは、エサとなる牧草もあり、仲間もいて、それなりに平和に暮らしているかもしれませんが、彼らに見えている世界のすべては、柵の中です。

その柵の外にもっと広い世界があり、草原をずっと行くと川があって、川を下って行くと海があるかもしれない。そういったことを想像すらできません。

誰かがやっていること、あるいはやったことを見て、「それってアリなの!?」と感じたことのある人は、柵の中の思考に凝り固まっているかもしれません。

同じ柵の中に生えている草花を見るのでも、柵の中にいて見るのと、上空から見下ろすのとでは、見え方がまるで違います。

柵に囲まれた小さな場所の中だけを見るのではなく、高いところから全体を見られるような視点(俯瞰・鳥瞰)を得て、それを持ち続けること。

これは、私自身の今後の課題でもあります。

「何をすればいいのでしょうか?」「どんなコンテンツを作ればいいと思いますか?」「○○さんは、いまどんなことをしてるんですか?」

これらの質問は、安易ですが、解答を得られない質問です。その質問をしている時点で、相手に「この人に説明しても表面的な部分しか伝わらないだろうな」と思われてしまっている可能性が高いからです。

人に質問をするのなら、「○○さんは、なぜここをこうしているのですか?」「こういう理由で、こういうことをしようと思っているのですが、どう思いますか?」、こういう質問をしたいものです。(もちろん、自分なりに頭を使って考えた上で、ですよ。)

「なぜそうするのか」を考えず、ただ行為だけを真似るのは、近道のように見えて、実は気の遠くなるような遠回りです。

柵の中の視点ではなく、高いところから全体を見下ろすような視点を持ち、結果を出している人が「なぜそうしているのか」を考えるくせをつけると、うまくいく思考パターンが身につくと、私は思っています。

【2023年1月7日追記】
個人サイト「ayan's style」をずっと管理・更新できずにおり、サイトクローズをすることにしました。でも、過去の自分の内側からあふれた言葉をウェブ上から消してしまうのは忍びなく、noteに移行して残すことにしました。
本記事は約7年前(2015年)に書いたものです。当時いくつかの感想ツイートをいただいたので、以下に埋め込んでおきます。


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