見出し画像

「曇り空に」 第2話 おいしい水


 記憶の微かな奥で、ある音楽が鳴り始めた。
 
 この曲なんだっけ?

 生ビールとギョーザで始めた町中華の乾杯は、いつもの僕だったら、行き当たりばったりで2~3軒、ハシゴしてみるのが定番だ。

 でも、今日は違う。

 誰かからプレゼントをもらった気持ちというのか、自分の頭の中に浮かんだ曲の名前を知りたいと思い始めていた。

 僕は改めて、自分のシャツの第一ボタンを外しネクタイを緩める。
 拉麺と炒飯を片付け、ビールをぐいっと飲み干した。

 会計を済ませ、外に出る。
 一刻も早く自分の部屋に帰って、CDのある本棚を見たい気持ちになっていた。

 アパートの部屋に戻ると、背広を脱ぎスウェットを着る。
 いつも夜のランニングを日課としているが、今日は、飲んでるからナシだ。
 いや、そんなのはどうでもいい。

 頭の中に浮かんだあの曲を確かめなければ。

 仕事に就いてから、僕は音楽を聴かなくなっていた。
 音楽って、自分の心の柔らかいところに触れる。

 営業でいつも傷ついている僕は何重にも鎧を着て、多少の事では傷つかないタフな心臓を手に入れている。

 そんな僕に、音楽は、しばらく関係が無かった。

 不思議だな。
 大学生の頃は朝から晩まで音楽を聴いていたのに。
 そんな気持ちを、今日、偶々、思い出したんだ。
 あの町中華で。

 本棚のCDを探ってみたけど、どうも、僕の思い出した音楽は無いようだった。
 実家にあるのか?
 いや、それとも、もともと、自分が持っていないものだったのか。
 好きなミュージシャンの音楽は、金の無い学生時代はほぼyoutubeで聴いていたが、就職してから、そんな好きなアーチストのCDを1枚、また1枚と買い集め始めた。
 なんだか、僕が稼いだ金を支払うことが、彼らへのリスペクトのような気がしたからだ。
 でも、それも、仕事が忙しくなるにつれて、忘れてしまった。

 というか、僕は、働き始めの時は、毎月、給料で数枚CDを買っていたんだな?
 やるな、その頃の俺、どこに行った?

 あれ?
 今、僕は自分の事を、俺って言った。

 そんな男だったっけ?
 自分が俺だったか、僕だったか。
 もう、思い出せない。
 どっちのキャラだったか。

 生ビールで、そんなことも分からなくなるなんて、今日の俺はどうかしている。

 自分の聞きたい音楽のCDはどうやら部屋には無い。
 なんだっけ?あの曲。

 女性ヴォーカルの。アカジベベってなんか歌ってた。

 そこまで思い出して、僕はスマホで検索してみる。
 「アカジベベ」って。ダメ元だ。

 検索してみると、アグア・ジベールっていう競馬の競走馬の名前とか、横浜の桜木町にあるアグア・ジベールっていうBARとか出てきた。
 でも、youtubeで、そんなタイトルの音楽も出てきて、色々聴いてみたら、僕が聞きたいのはアストラッド・ジルベルトという歌手の「おいしい水」っていう歌だったという事が分かった。
 ブラジルのボサノヴァっていうジャンルらしい。

 すげ!
 インターネットって、神!

 昔の人間が、あれ、何だっけ?って何も分からず死んでいったこと、今の人間は一瞬にしてググってわかってしまう。
 あいまいな単語でも。
 情緒も何にもないけど、僕は、今が嫌いじゃない。
 タイパがいい方がスキな令和の男。

 そうそう「おいしい水」。
 このCDは、僕の持ち物じゃなかった。

 彼女のものだった。
 
 あの時、大学4年生の、あの時、どこの会社に就職するか決める時、とっても馬鹿げたことだけど、僕は、彼女が貸してくれたCDの「おいしい水」って言葉で決めた。
 今、勤めている水を売る会社に、決めたのは、その言葉がきっかけだった。なんて一か八かなんだろう。タイパとかどこ行った?って感じだ。

 そのことを、今日、思い出したんだ。
 そのことを思い出した自分に驚いた。
 そうして、そのことを忘れていた自分にもっと驚いた。

 彼女は、今、どこにいるんだろう?

 この「水」の意味は「愛」のことらしいと説明にある。「おいしい」という形容詞さえつかない、ただの「水」。

"Agua de Beber"
「愛したかったのに 怖くて心を閉ざしてしまっていた
 だけど、怖がっていては愛することはできない
 (おいしい)水 これは(おいしい)水
 良いことはしてこなかったけど
 謝ることを学んだから
 心の扉はすべて開け放たれている
 確かなことを知っているから夢から目覚めた
 愛のことではいつもさみしくなる
 私の心は悲しみでいっぱい」

(日本語訳 by Rosa of Carillon de Vent)

 今夜の自分はナイーヴで、明日、いつも通り仕事に行けるかどうか自信が無くなってきた。

 落ち着け、自分。落ち着け。

 今日の俺は何か大事なことを思い出した。
 それはなんだった?

 夜明けまでは、まだ、少し時間がある。

 学生時代、自分がパニクった時、よく聴いていたギターの音をyoutubeに探した。ギターって、海の波が重なるみたいにいくつもの音が聞こえてくる。焚火を見ているみたいに安心する。

 僕は偶然、youtubeで見つけた男が弾くギターの音をしばらく聞き続けた。アコースティックギターの、バランバランってよく響く、ギターの音色を聴いていた。 

 今日は、もう、何も思い出したくないし、考えたくない。
 
 僕の心が、どうなっているのか、よくわからない。

 俺は聴いた。

 音色に抱かれるように、ギターの音を。
 自分の意識が無くなるまで。



 2222文字。ゾロ目です。
 1話目の松下友香さんが、土谷さんの音楽からイメージを膨らませて、小説を書いてくださったのに、私は、とても音楽の方に振れてしまいました。
 水が出てきたときに、すでに「おいしい水」のことがアタマに浮かんでいたからです。先日、自分自身も、今日、疲れたな~という日に、土谷さんのyoutubeを聴いていたらとても癒されて、人間には、左脳を休める時間って必要だなと思ってしまったのです。何がどうでこうなのか、彼女とは何なのか?次の人に丸投げでごめんなさい。
 しかし、参加者についての友香さんの紹介を読み、3話4話目の担当が、実力者、ということで、どんな話も解決してくれるのだなと安堵のため息をついています。この続きを、よろしくお願いします。てへぺろ( ´艸`)

ヘッダー写真は<a href="https://jp.freepik.com/free-photo/blue-swimming-pool-rippled-water-detail_1238770.htm#query=水&position=4&from_view=keyword&track=sph&uuid=c943302b-6245-4587-845e-91d1fe406d7c">著作者:benzoix</a>/出典:Freepikより引用しました。