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生きているあなたへ

Googleで「自助」と検索すると以下の文が出てくる。
「自分で自分の身を助けること。他人の力を借りることなく、自分の力で切り抜けること。」
私は自助や自立を前提とした生き方を強いられていることにほとんど違和感を持っていなかった人間だ。なぜなら自分でなんとかできるならそれが一番だから。他者があってこそだと常々感じながらも、長い間私は私を養っていることが自尊心の中心にあった。
でも私は助かってしまっただけだ。生き残っただけだと思う。
「当たり前に呼吸していることのふしぎ」をテーマに制作された作品を前に、呼吸できることが当たり前にもならない自分に作れるものはないのか、とふがいなさと憤りがない混ぜになり友人知人がいるレセプション会場を抜けて駅で泣いていたことがあった。過換気症候群の発作のためにペーパーバッグとマスクを持ち歩いていた時期だった。
呼吸も、生きていることも今まで続けているけれど当たり前にはならない。私は自分にだけではなくすべてのあなたにもそう思っている。

9月、朝日新聞社の言論サイト「WEB論座」に掲載された「NPO法人抱樸」の奥田さんの記事を読み、SNS上でバッシングに埋もれた「自助、共助、公助」と「自立」について考えていた。今は有料の記事になっているため引用は控えめにしたい。(私はこれを書くためにひと月分の会員費を払った。今のところこの記事を読むしか用がないけれど。)
奥田さんはNPO法人抱樸理事長、東八幡キリスト教会牧師であり、ホームレスの人々の自立支援をされている。

“私は、自立とは「助けてと言えること」であり、自立を助長する社会とは「助けてと言える社会」だと考えている。自立は孤立ではないし、そもそも孤立状態では成立しないのが「自立」なのだ。”

「菅さん。「まずは自分でやってみる」からではないですよ」
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020092300010.html

奥田さんは自立支援において経済的困窮を「ハウスレス」、社会的孤立を「ホームレス」と呼び、両方の支援が人が自立する上で必須だと書かれている。自分が職を失い、家を失い、路上で横たわることを想像できなくても、社会的孤立が隣り合わせにあることならばよくわかる。職があり、家があっても、死にたさには関係がないからだ。
奥田さんの記事の余韻を胸の中に転がしている間に、東京大学先端科学技術研究センター准教授である熊谷晋一郎先生の記事に行き着いた。熊谷先生は生後間もなく脳性まひにより手足が不自由になり電動車椅子で生活されている。

“「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。”

「自立とは「依存先を増やすこと」」
https://www.univcoop.or.jp/parents/kyosai/parents_guide01.html

自立の定義がふたつ並び、私はそのどちらにも頷きたい。「助けて」と言えるひとがいること、自分のくるしさについて話せるひとがひとりではないということが、私にもあなたにも必要だと思う。自分のことは自分でなんとかできて当たり前という考えが根付いている範囲はとても大きいと思っていて、「自分でやると決めた仕事を辞めるなんて」とか「パートナーや家族間にあるストレスを話せる友人がいない」とか「自分の死にたさは自分でどうにかするしかない」も、自分のことは自分ひとりではどうにもできないから分け合って当たり前という前提がもしもあったなら、後ろめたさや途方もなさが軽減されはしないだろうか。
寄る辺があるかないかで競いあいたくなんかない。ましてや奪い合うようなものでもなく、いくらあっても「助けて」と言えないならば完成された自立ではない。そして完成された自立を獲得したひとも、それは事象によってたった一日でいとも簡単に崩れることがある。誰にだってすべてを失う可能性がある。皆等しくそういう世界に生きているのに、どうして自分だけ大丈夫だと言えるのだろう。どうしてひとりひとりが完璧な強さを求めているのだろう。

私が寄りかかっているもの。
手紙、音楽、言葉、自分の肉体の強さ、あらゆる心の機微を面白がる精神、この国の四季の存在、あなたが生きていること、その心のしなやかさ、観光していること、いずれ観光が終わること。あなたが寄りかかっているものの中にこの手紙や、私が書いてきたものがあったなら、と密やかに想像してしまうこと。

自分を生かすことは誰かと生きることであるとは、ひとりで息を縫い合わせて生きてきたという自負を拭っている最中の私にはまだ言い切れない。なんでもかんでも人に任せるわけにはいかないとも思うし、死にたさくらい自分のものであってほしいと願うこともある。生きたいも死にたいも人から奪うものではないからだ。
生きていくことの単位はひとりだ。ひとりで笑ったり泣いたりできるように、ひとりで次の角を曲がることを選んだり、転んだ膝の痛みをひとりで忘れたりするために、傍にいる。ほんとうのひとりとひとりになるために、私はあなたをひとりきりにはしない。どんな形であっても傍にいる。

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10月の「星渡りの便り」より

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