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「Pieces」、あるいはその景色について

「Pieces」の景色

拾い上げたひとつの解を「Pieces」と名付けたのは、その名を持つ楽曲から見ていた景色と繋がっていると思えたから。

いい音楽をたっぷりリリースしている東京のレコード・レーベル「FLAU」からリリースされた『Farewell』は台湾発、5人組の室内楽アンサンブルCicadaの2016年の作品。「Pieces」はその中の一曲として収録されている。

この曲を聴くと必ず見える景色がある。
高い高いところから街の灯を見下ろしている、その視界。
(飛ぶ鳥のように、真下に見下ろしている)
「うつくしいこれらがいつかなくなってしまうこと」の悲しみが「わたし」の中に満ちていて寂しさと無力感に体が弾けてしまいそうになる。
(自分がどんな体でどうやってそれを見ているのかなどは何もわからない)
そんな身に覚えのない感情をこの曲を聴くたびに疑似的に体験している。
曲名は「Pieces」、原題は「散落的時光」、歌詞はない。

桜の花びらも、窓につく雨粒も、水面のきらめきも、ずっとここにはない。ほんのひととき群れを成しているだけで、ひとつひとつが思い思いに消えてゆく。公園にいた人々はそれぞれの家路を辿り、私もいつかこの町の住民ではなくなり、この星からもいなくなる。わたしたちはひとりずつ、ひとりぶんの旅を生きている。
わたしたち、それはあなたとわたしのことに留まらず、この町でもこの国でもなく、何かを信じるか否かを問わず、何かを持っているか否かを問わず、無条件に「みんな」。人間、あるいはここに生きているすべてのもの。
高い高いところから見下ろした街の灯のひとつひとつには、生きているものがいる。今ほんのひととき群れを成す命を、うつくしくて寂しいこの瞬間のことを、愛している。愛しているとしか言えない。

自由研究初期の頃のこと

今、わたしたちはちょうど散りばめられていて、隔てられている。
こんなにもひとりとひとりであることが日常の中の体感として共有できている今、「ひとり」と「わたしたち」について取り組もうと決めました。

“「Pieces」という企画全体を通して「散りばめられたわたしたち」についてあたらしい視点を差し出したいという思いがあります。そのためには「今ここにあなたがいること」に対して向かうしかないと考えます。”

note記事「「すべての散りばめられたわたしたちへ手渡す50のかけら」について」より

「わたしたち」という言葉を多用しながらも、それが暴力になる恐れがあるという認識もずっと傍らにあります。公園で桜の花びらを眺めていた自由研究初期の頃の端書きがありました。
(丁寧にできているだろうか、もっと丁寧にできるんじゃないだろうか)

「わたしたち」という言葉の手触りが変わるとき、「ひとりきり」という言葉の手触りも否応なく変わる。
自分にできるのは、そうしたやり方でずっと傍にいることだと思っています。

仲のよい生きもののすがたかたち

今日、サニーさんとInstagramライブ配信でお話している中で
「写真に写っている人物はすべて知らない人で私が通りすがりに写しているだけです」という話をしたら大変驚いていらっしゃった。お顔がはっきりわかる写真はセレクトしていないので問題ないと思っているからだけれど、人物を風景の一部のように捉えているからかもしれないとも思いました。強い風に向かってひっつきながら歩いてゆく恋人たちも、寄り添って咲く花も、すがたかたちが違うだけでおなじ。そうした視点で編集しています。はっきり言語化したのは初めてですが、友人を写したポートレイトを混ぜなかった理由とも合致します。
わたしは仲のよい二人組を見るのがすきなので、町を歩くのが好きです。生きものが仲よくしているすがたをもっともっと見たい。

終わりに

作った本にいつもあとがきを書かないのは、これ以上の言葉はいらないと思っているからですが、今回の「Pieces」については配信含めたくさん話しました。詩も写真も、意味があってないようなもので、手にとったひとが自由に感じられる余白があって然るべきです。
言葉が言葉じゃないものを打ち負かしてしまわないようにとせめて祈りながら、この記事を終えようと思います。


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