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うちひらくれば 1通目の対話(ためしよみ)

牧師と詩人からの手紙「うちひらくれば」1通目、いよいよ発送はじまります!詩を読んでいない状態でも対話の雰囲気を感じられるかと思い、お届けする「1通目の対話」からいくつかの章をためしよみとして公開いたします。




2.神様は悲しみも与えてくれる

牧師:だからこれはキリスト者(クリスチャン)にも教会でいつも言ってることだけど、キリスト者になっても苦労はするんだ、と、悲しみも悩みもあるんだ、と。でもそれらのすべてもやっぱり神様から与えられたもの、必要なものとして与えられたもの。だから、彩乃さんの詩を読んでさ、3連目「かなしみも  よろこびも 今日の日のわたしに必要であった」って言葉、これすごいなと思った。なんか、ちゃんとそういうことをこの聖書の言葉を読んで受け止めてるんだなと思って。必要なものが今日与えられるっていうことは書いてあるけど、その中身が何かってことは書いてないわけじゃないですか。でも彩乃さんは、それが悲しみも喜びも含まれてるってわかってる。多分人は、喜びだけが神様から与えられたもので、悲しみは別のところに来てるんじゃないかと思うかもしれないけど、彩乃さんは悲しみも喜びも必要だからこそ与えられたんだって書いてるってところが面白いなと思って、これはどうしてそう思ったんですか。

詩人:これはどちらかというと自分の考えですね。かなしみとよろこびに対応してるのが、雨と太陽。この地において降られ 照らされるというところで、自分に訪れるものっていうのが等しく自分の糧になり得るっていうことは、この詩の中でぜひ一緒に伝えたいなって思いました。

牧師:へええ。例えばこれも読んだのかな。『マタイによる福音書』の5章の43節と45節にこんな言葉があるんだけど。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 」

詩人:読んでないです…。

牧師:あ、そうなのね。詩の4連目、とても素敵な祈りの言葉だなと思って。で、悲しみも喜びも今日の日の私に必要であったっていうのは、多分、キリスト教の文脈で言ったら、これは感謝の言葉だと思うんだよね。「必要でありました。神様ありがとうございます」って。悲しみを経た人、喜びを経た人の祈りの言葉なんだよね。あの悲しみもあの喜びも神様、あなたが与えてくださったんですねって言って。ただの悲しみ、ただの喜びとしてじゃなくて、あなたが与えてくださったものとして受け取り直している。それが祈りになるんですよね。

詩人:それは出来事だけじゃなくて。人もそうだよね。

牧師:そうですね。人も私にいい言葉を言ってくれる人だけじゃないじゃないですか。悪い言葉を言ってくる人もいる。でもあの人も私の弱さや私の駄目さに気づかせてくださるために、神様あなたが用意してくださった天使だ。天使だと思えなかったかもしれないけど、そういう役割の人だったんですねって受け取り直して、必要な言葉、必要な人だったんだって振り返る。

詩人:今回の『マタイによる福音書』の6章32節の

「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」

この一文を読んで結構、詩の軸というか背骨が決まる感じがしました。この考え方は素敵だなって私は思いますね。

牧師:私たちの必要をご存知でいてくださるなら、じゃあ私が望んでいるあれもこれもくれよって思うことがあるかもしれないけど、でも、私たちに本当に必要なものを、私が本当に思っていることを超えてご存知でいてくださる。だから、耳障りのいい褒め言葉だけじゃなくて、悲しみも厳しい言葉も厳しい出来事も必要なものとして与えてくださるってことですね。

詩人:それは私が聖書をこうやって開くようになる前から、経験がこの世で一番価値あるものだと、観光客目線で思っていたところがあって。いいことばかりの経験ではなく、いろんな思いをして、怪我や病気とかもしてっていうのがやっぱり、例えば死んじゃったら手に入らない、生きてるからこそもらえるもの、得られるものだと思うんです。そういったいろんなことを経験すると「良い出汁」が出ると20代の頃から実は思っていて、それは例えばいろんな人の苦しみや悲しみに共感できる幅が広がるとか。だからより好みせずに、自分のもとにやってきたものを喜び、これは価値あるものだって、結構踏ん張ってきたところがあるから。

牧師:うんうん。

詩人:それらを誰が与えてくれたかっていうのが明確なのが聖書ですけども、私はそのように誰がっていうのは特になかった。そういう違いはあるけれど、聖書の中にそうやって自分の信念と共通するところを見出すと、言葉が強くなるというか、ただ書いてあるものを自分の言葉で書き起こすだけではなく、自分の中にある言葉として出せるっていうのはありがたいし、楽しいですね。


6.それって愛じゃん

牧師:それを「愛により」って書いてくれたのが面白いなと思った。そっか、それは愛なんだなって。鳥に対しても花に対しても神様は愛をもってご覧になってらっしゃる。そしてあなたのことも愛をもってご覧になっているんだよってことだね。

詩人:

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」

この26節を読んで、それって愛じゃんって思って。

牧師:そうだね。それに神様に対して何ができるかとかじゃなくて、何もしないうちに神様が先に愛してくれてる。

詩人:私は信仰を持ってないけれど、生きてる人だけじゃない誰かや何かに生かされているという風には思うので、それは愛だとは思いますね。

牧師:おー。そっか、それを愛と表現するのは、あなたはその愛を受け取ろうといま手をおずおずと前に差し出しているところなんだなと思いましたね。あと「たった一つの意志」っていうのはこれも神様のことなのかなと思ったけど、どうですか。

詩人:神様とは表現しないけど、愛なる存在からの愛による意志として書いてますね。フロム神様っていうことがわからなくても、ここに起こっている出来事は愛によって起きたこと。誰によってかは明確にはしないけれども、愛としてそこにあるんだなって。神様っていう言葉よりも、愛のことを愛って言った方が伝わる気がするのは自分の経験なのか、自分の感覚なのかどっちつかずですが、やっぱり愛は愛だけで存在するって、私はそう思うかなってところです。



7.愛についての論争 ~牧師、初めての反論~

牧師:初めて反論するところだけど、愛が人格を持っているわけじゃなくて、人格を持った人から人格へ注がれるのが愛なので、やっぱりその源には人格があると思うんですよね。私たちを愛する存在としての人格がある。愛がまるで酸素のようにその辺に散りばめられているんだとしたら話は別だけど、そういうものじゃなくて、愛ってやっぱり関係概念なので。

詩人:面白いね。

牧師:だって、恋人から恋人への愛なわけじゃないですか。その辺にある愛でよろしくってわけにはいかないじゃないですか。やっぱり誰かから誰かへ向いているわけだから、代わりはきかないと思うんです。

詩人:じゃあ何か愛されるための条件があるんですか。

牧師:そういうわけじゃない。それとこれとは話が別かな。

詩人:うーんと、関係性があるから生じている愛だけども、でも私たちはその愛の向こう側にいる人とか、存在をこの目で見ることはできないわけで。愛によって誰かの存在に気づくっていうことはあり得ると思うけど。愛されていることに気がついたときに、ああそうか神様っているんだってことに気がつけるっていう。キリスト教はそうなんだと思う。私としてはこの愛はどこからって思いながらも、確かに愛されてるなってちゃんと確信を持つことが先に大事かなって思う。愛されてることへの確信。愛が誰からなのかというのは、これまで詩の中でも明確に書いてきたりしてないと思う。

牧師:そうだね。彩乃さんの詩の中で愛って言葉は確かによく用いられている。

詩人:どっちかというと、酸素みたいにあるって感じになってるのかもね。だって自分がここにいるっていうことは、もうすでに何らかの愛によって生かされてる。それが例えば親とか、この国があるから、この星があるからみたいな、そうやって、どんどんどんどんでかくなっていくんだけども、でも結局、最後は見えない何か大きなものへありがとうっていう風になる。その正体を知り得ないことを恥じなくてもいいっていう立ち位置でいたいかな。それは自分を擁護するためのあれなんですけど、

牧師:そう、だからクリスチャンからすると、その愛に対して誰にありがとう言ってるんですかねって。意地悪なんですけど。

詩人:確かにね、関係はちゃんと成り立ってない。

牧師:例えば私が彩乃さんが落としたお財布拾ってあげたとするでしょ。拾ってあげてさ「落としましたよ」って言ってさ「ありがとう」って言われたとき全然違う方向を見ながら言われたら、え?ってなるよね。

詩人:でも例えば慎平君の財布を拾って、交番に届けます。それで慎平君が交番に行って「財布落ちてませんでしたか?」って聞いたら「さっきここを歩いてた人が拾ってくれましたよ」って言われて、でも拾ってくれた人が名前も電話番号も交番に伝えてなくてわからなかったら、とにかく「どなたか、ありがとう」って思うでしょう?

牧師:まあそうだね。財布の例えが悪かったね…。

詩人:なんかめちゃめちゃありがたいなって(笑)完全に有利な例えでした。

牧師:神様が愛する理由はやっぱり振り返ってほしいがゆえに愛すると思うので、多分交番に住所と名前は伝えてると思う…。

詩人:神様は見返りを求めるの?

牧師:見返りって意味じゃなくて。ちょっと話がずれてきたかな。とにかく、俺だよ俺って。

詩人:俺ってわかってほしいんだね。

牧師:聖書の差し出し人は神様だからね。神様からのラブレターだから。

詩人:なるほど…。

牧師:この詩は少なからず彩乃さんなりのちょっとしたプロテスト(抵抗)だなって思いました。神様を愛と呼んだり。

詩人:読む人によってはまどろっこしいって思うかもしれないね。

牧師:聖書が引用されているから読まないって人もひょっとしたらいるかもしれないけど、

詩人:まあまあ、それはそれですね。

牧師:でも聖句の部分がわからなくても成り立つし、ひらいていると思うよ。彩乃さんなりに一生懸命にね。

詩人:一生懸命。はい!


牧師と詩人からの手紙 「うちひらくれば」

聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ

(旧約聖書 詩篇 第119篇130節 文語訳)

特定の信仰を持たない詩人が 聖書の言葉から詩を書きます。 そして書かれた詩を間に置いて、 聖書を説く人である牧師とふたりで言葉をひらいてみるこころみです。 詩と対話を一通の便りとして、お届けします。

【一通目:6月の便り】

*聖句

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

(新約聖書 マタイによる福音書 第6章34節 新共同訳)

*詩
「すべて今日のための愛」

内容物

・聖句と詩のカード
・対話を掲載したペーパー(A4:2枚表裏)


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