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そうじゃなくてもいいっていうこと

来世は東京のイケメン男子にしてくださーーーーーい!

っていう映画がある。あれ大好き。
この間久しぶりに東京に行った。
見るもの見るもの、全て新しい。
違う場所にいると、違う自分が見られる気がしてとても気持ちいい。

私は外国の文化が好きで、よく日本と海外の違いってなんなのか思うことが多い。
ここ数年、就活というbig eventに圧倒されてた。
その頃は、恋愛に打っても。
自分のことを気に入っていた男の子がいて、ぐいぐい来られたのにいきなり去られたり、どっちつかずな態度を取られたことがあって、その子の思いのまま行動していることに対して、自分は結構悲しかったのだけど、スペックが高くて自分に持っていないものを沢山持っていたから、好かれようとしていた気がする。好かれるために追いかけていた。(?)

一つの物事のやり方はすべての物事のやり方だと。いう言葉があります。
そのように
就活に対しても、その頃の恋愛と同じように感じて行動していた。
同じように大衆に囲まれて行動することにどこか違和感と自分の気持ちとの行き違いを感じながらも、「いや、これじゃないと大人じゃない」とか「こうじゃないと認められない」とか。自分の気持ちを聴く時間を充分にとれずにその場のがれで、とりあえず。やっていた。

でも、すごく苦しかった。
なぜなら、おかしいとかんじながらも、自分の気持ちをねじ伏せていい顔してたから。猫かぶって、それができるのも時間の問題だった。

どちらかを選ぶということは、どちらかを捨てるということで、
それはやはり、どちらか、であるとそう思います。
AかBか。えらんで、捨てる覚悟で、じゃないとその道を生きる私は苦しいままだ。こっちもあったかもとか、思いながら歩むのは苦しい。

自分自身が、生きるたびに、下手であるところも不得手であるところも痛いほど実感する。また、自分自身が『大衆』のサイズに合わないことにも気づいた。*最近見たYoutubeの方が、自分に合った靴がある。小さい靴を履いたまま歩くのは痛い。みたいなこと言ってた。

だから今自分に必要なのは、選択する、ということだ。
日本にはルールが多い。だから前提を疑う。
道を線ではなく、自由帳みたいに真っ白のキャンバスに描くのだとしたら。
前提をひっくり返す。そうじゃなくてもいい、のだとしたら。
まじめな人でなくて、おかしなひとでいいのだとしたら。

そうすると、たくさんの面白いアイデアが思い浮かぶ。
楽しそうな、自信が持てる自分がイメージできる。

線で選ぶ自分はすごく退屈で、悲しい気持ちのイメージ。
最近気づいたのは、自分が大人、や年齢の枠に当てはめようとして息苦しく退屈にさせていること。大人になると、傷つかないようにすることが得意になる、し、義務的なものが増えて楽しむことや子供心を忘れてしまいそうになるってこと。

だから大人って、自分をくくるのではなくて、こんな大人がいてもいいんじゃないくらいに大きーく広ーい心で見ると、楽しくなって来たりして。

また、人の心や意識、は変えられないということ。
だから自分で環境は選んでいいということ。
事実や起こる物事は変えられない。
起こることは起こる。悲しいことも、嬉しいことも。
でも、自分の心の捉え方や気持ちの持ち方は変えられる。
意識の向き方で見え方が変わる。
事実が変えられないからこそ、物事の陰陽があるように、
~だな。逆にこういうこともできるんじゃない?って捉えたいよね。
だからこそこういうこともできるよね?って。
それって簡単じゃないし、ある種心のトレーニングのような気もするんだけど地味で意外に効果がある気がする。

不得手なものが多い。悲しいことに(-.-)
だからこそ?
だね。

捨てる勇気も感じたこの頃。
去るものはいらないし、自分の毒になるものはできるだけ早く分かったら、捨てる。
これは顕著で、私の場合、いやなものは身体の不調と身体がその場へ動かないっていう反応が出る。(笑)

身体を労わると、心があって、魂(私)があって、身体があって。
身体って借り物のように、たまに感じている。
入れ物みたいな。
だからこそ、いつもがんばってくれてありがとうって身体を労わることと、心と身体に敏感でいてあげることも必要なんだなあって。

お仕事すると人のために奉仕することが多いから余計🤠

だから、感じていることがすべてだと私は思っている。
いやなものはいやでいい、って思う。
いいなって思うものは一生いいものだし。
いいなって思うものをできるだけみつけていきたい。


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