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第三夜 「生ゴミ」とサピア=ウォーフの仮説

 こんにちは、あやのです。2021年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて早速、本日はゴミに関するお話。ちょっと汚い話も入ってくるので、お食事中の方は、またあとで覗きに来てください。

 西表島では、ゴミの分別がとても厳密です。一番驚いたのは生ゴミの捨て方で、なんと自治体は回収してくれません。じゃあどうするのかというと、地域にトラッシュボックスが設けてあり、各自がそこに捨てに行きます。なんでこんなことをするのかというと、堆肥にするからです。

 トラッシュボックスというとカッコよく聞こえますが、実際はむき出しの装置の蓋の開けて生ゴミを入れるだけなので、うじ虫もいるし、ほかの人が捨てた生ゴミも、奥深ーくには見えます。汲み取り式トイレの生ゴミ版というと伝わりやすいかな。(もしや、夏になったら匂いもするのかな…?)

 生ゴミを毎日捨てに行くのも手間だし、だからといって家に置いておくのはもっと嫌なので、極力生ゴミが出ないように生活するようになりました。野菜の皮も、キャベツの一番外側の葉っぱだって、カブの根だって、食べれる。カブを切っているとき、根と茎の境の箇所も意味なく捨てようとしていた自分に気が付き、すぐに思いなおしました。玉ねぎの皮だって、最終的には捨てることになるけど、一回はダシを取るのに使えるしね。

 一方、東京で私が一人暮らしをしていた地域は、ゴミ捨てのルールがかなり緩いところでした。油で汚れたガラス以外は、ほぼすべて燃えるゴミとして出せました。捨てるの際の、指定の袋もありません。

 西表島のルールは、東京に比べると不便です。手間です。けれども、東京でのゴミ捨ては、見たくないものにフタをしていただけだと思います。見えないように縛ってゴミとして出せば、勝手に持って行ってくれるのです。西表島で出される生ゴミは、堆肥となって土に還り、豊かな自然の一部になります。その自然の中で、直接人間が口にする作物になったり、動物の餌となります。やがて、その動物を人間がいただくことになります。生ゴミって巡り巡って食べ物に繋がるなるものだし、そもそもそれ自体が作物の一部だったり、動物の残骸だったりするので、見たくないからって、フタしちゃいけないものだよなぁと、感じたりします。

 最後に。「サピア=ウォーフの仮説」ってご存知でしょうか?またの名を、「言語相対性仮説」と言います。これは、人間が言葉を操っているのではなく、言葉が人間の認識を形作るという、学問上の見解です。つまり何が言いたいのかというと、「生ゴミ」って名前にしてるから、汚いものとして扱われるんじゃないのかな??という疑問です。上記の通り、生ゴミはやがてまた人間の口に入るものなので、そういう「循環している」みたいな名称がついてたらよかったのになぁと思ったりしました。
(サピア=ウォーフの仮説については、コチラの記事が大変面白かったので、ご興味がおありの方はぜひ♡)

 最後の最後に。元旦に家のベランダから虹を見ることができました。とても嬉しくなったので、ココでもお福分けを♡2021年も素敵な一年になりますように!

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