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すきなものをすきと言うことに前向きな私でいたい #呑みながら書きました

白湯、飲んでる。

今日も明日も明後日も明々後日も仕事なので、お酒は呑まずお白湯で今回も参加させていただきます。大丈夫、大丈夫だって、「のちこ」は常時酔っ払いみたいなものなので大丈夫、大丈夫だって!

いえーーい!みんなーー!キッスだよーーー!!!チュッチュ〜〜!

というわけで、

#白湯呑みながら書きました

マリナさん、あきらとさん、開催本当にありがとうございます!

とはいえ、仕事以外でまともに文章と向き合って書くという行為が久しぶりなので、少し緊張している自分がいる。

しかも「さて、何を書こうかしら?」と、今ここで考え始めている時点で、酔う酔わない以前の問題な気がしている。大丈夫?(大丈夫じゃない)

もう全然大丈夫な文章を書ける感じでも、面白い文章を書ける感じでもないので、たまには酔ったことにして、友達とゆるりと雑談をするように、言葉を紡いでみようと思う。大丈夫?(大丈夫じゃない)


私はピンクが好きだ。

もうずっと好きだ。三つ子の魂100までというが、子供の頃からピンク色が好きだった。あまり年齢のことは考えたくはないが、32歳にもなってピンクってと思うし、そもそもこのキャラクターでピンクって、とも思い気恥ずかしくもなるが、私の部屋の壁紙はピンクだし、何かを購入する時ピンクかそれ以外の色だったらピンクを選びがちだし、車もピンクだし、髪色はピンクの入ったブラウンだし、今日買ったKindle paperwhiteも悩んだ挙句くすんだピンクを選んだ。
ピンクはあるだけで、私をハッピーにしてくれる。
だから、私はピンクが好きだ。


私はクラシック音楽が好きだ。

大学時代、オーケストラ部で演奏をする側になってから一層好きになった。美しいハーモニーを奏でられた時の全身が歓喜に満ち溢れる感覚も、音が空に舞い上がり空を甘く漂う瞬間も、全団員の呼吸が合わさる時の興奮も。
全てが愛おしく、この世にこんなにも素晴らしく美しい世界があるという事実に、生きる希望をもらってきたような気がしている。
ブラームスは私を絶望から救い出してくれたし、ベートーベンには不屈の精神を、シューマンには愛の片鱗を見せてもらった。
誰かにクラシック音楽が好きだと言って、話が盛り上がるということはあまりないが、間違いなく私の体を構成する物の一つと言っても過言ではないほど、私の人生に溶け込んでいる。
だから、私はクラシック音楽が好きだ。


私は眼鏡をかけた中村倫也が好きだ。

突然どうしたの?と思われるだろうが、もうたまらなく好きだ。ドラマ「ホリデイラブ」の時の中村倫也が好きすぎる。オールバックの黒髪、銀縁の眼鏡、スーツ、切れ長の瞳。見た目がドストライクすぎて正直ドラマの内容あんまり覚えていないが、とにかくよかった。
正直にいうと中村倫也というか、「眼鏡をかけた」中村倫也がいいのだ。もう言語化できない。全く言語化できないけど、私は眼鏡をかけた中村倫也のその眼鏡になりたいし、無理ならば眼鏡をかけた中村倫也の髪の毛に塗られたワックスになりたいし、最悪眼鏡をかけた中村倫也の周りを漂う花粉とかになってくしゃみを誘発したい。そうつまりアレルゲンになりたい。アレルゲンになりたいのだ。
アレルゲンになって嫌われたって、私は眼鏡をかけた中村倫也が好きだ。


先日、友人とこんな話題になった。

「本当は大して好きでもないのに、『○○が好きな自分』という一面を見せて、周囲からの自分の評価を演出することほど馬鹿なことはない」

なるほど確かに世の中には、「何かを好きな私」をイメージ戦略に使う人もいる。本当に好きであればいいけれど、大して好きではないのにも関わらず嘘の好きを使って「私」を形作っているのであれば、純粋になんだか悲しい話だなと思った。

でも果たして。

果たして私は「私の好き」に対する他人からの目を全く気にしていないと言えるだろうか。

私はピンクも、クラシック音楽も、眼鏡をかけた中村倫也も大好きだ。
大好きだけれども、「好きな私」に対する他人からの評価を気にしてはいないか?

方向性は違えど、他人の評価に怯えている私がそこにいるのではないだろうか。

例えば。
ピンクのラパンに乗っていることを、私は多少気恥ずかしく感じているような気がする。

例えば。
クラシック音楽が好きだと話した誰かに「君とは趣味が合わないね」と言われることを恐れているかもしれない。

例えば。
眼鏡をかけた中村倫也のアレルゲンになりたい話をしたら、変態だと思われるのではないかと心配していないか。いや変態でいい、これに関しては仕方ない。変態でいいです!


や、そうだな。変態でいいな。イェーイみんな見てる???変態でーす!

そうなのよ、ごめんごめん、ちょっといい風に書こうと思ってあれしてあれしたけど、正直私、「好きなこと」に対しての他人からの評価、全く気にしてない人間でした。すみません!!!!!!

「ような気がする」とか「かもしれない」とか歯切れ悪いのは、そんなことなかったからでした!!!!!

私、好きなものは他人からどう思われようと、めっちゃ好きでーーす!って大声で言うタイプの人間でした!!!!すみません!!!!!!

ちょっと30秒くらい「好きなものについてすら他人からの評価を気にしているかも私……反省……」って気になって、おセンチのちこちゃんな文章書き始めてたけど、途中で「あーーう違うな、全然そんなことないや、嘘書いてるやばい嘘ピッピ〜〜〜ごめんねごめんね〜〜ふーー↑↑」ってなったわ、ごめんほんとごめん!!!

ピンクのラパン乗ってても私の心は踊ってるし、誰がなんと言おうと私の心の中に築かれたクラシック音楽との思い出は偉大だし、眼鏡をかけた中村倫也の脱衣所のバスマットにもなりたいよ。

眼鏡をかけた中村倫也の脱衣所のバスマットにもなりたいよ!!!!!


でもね、私思うのよ。好きなものを好きであり続けることと同じように、好きなものを躊躇なく好きと言えることも尊いことだなって。

や、別にね、わざわざ言わなくてもいいのよ。それもそう。
心の中で好きでもいい。好きを静かに育てるのも、それはそれで素敵なこと。
でも、好きを素直に表現できることもまた、素晴らしいことだと思うのよね。

ほら、「『好きなものは好き!』と言える気持ち抱きしめてたい」ってマッキーも言ってるじゃない。
「言える気持ち」を抱きしめてたいんだよ。マッキーは。マッキーいいこという。

そうだな。
好きな気持ちをアウトプットすることって、幸せの連鎖に繋がる気がする。

好きなものは好き!どうしようもなく好き!
その心は純粋で、そこには大きなパワーがある。
活力がある。人生を前に進める動力がある。

誰かの好きに触れた時、その情熱になんだか心が温かくなる気がするのはきっと私だけじゃない。

恥ずかしがらなくったっていい。

好きには、生きる一歩がきっとある。

だから、「好き」を話そう。「好き」を伝えよう。「好き」を表現しよう。


私は。

好きなものを好きと言うことに前向きな私でいたい。


こんな感じで。
いえーーい!みんなーー!キッスだよーーー!!!チュッチュ〜〜!

……呑んでないですけど、大丈夫?(大丈夫じゃない)



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