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結婚しない「気の毒さん」は、今日もきんぴらごぼうを食べる

今日のお昼はきんぴらごぼうに焼き魚、厚揚げを焼いて少しだけかつおぶしをかけたものに、野菜のたっぷり入ったお味噌汁。白いご飯がおいしくなる最高の食事。理想的すぎるお昼ご飯に心の中で花丸をつけた。

「幸せだなあ」食事が美味しいというだけなのになんて大げさだと思いつつも、ご飯が美味しければなんだって幸せな気持ちになる単純な私が私はすきだ。
きんぴらごぼうは普通より少し柔らかくて、それがとてつもなく好みだった。焼き魚は17歳まで住んでいた地元枕崎名産のカツオの腹皮。先日親戚からもらったもので、私は昔からぷりぷりとした食感の癖の強いこれが堪らなくだいすきだった。この味を東京にいた時はなかなか味わえなくて、「地元よりも東京がすき」なんて生意気言いつつも結局故郷の味を求めてしまう自分に、味の記憶というのは根強いことを気づかされた。

地味だけど、優しいお昼ご飯。毎日これでいいのに、いやまあそりゃ毎日は飽きるけれども。そんなことを考えながらも、結局は慣性の法則のように「幸せだなあ」という感情へと着地する。今現在、口の中が幸せなのだから、それでいいのだ。

私は結婚していない。
藪から棒になんだという話だが、確かに私はいま独り者で、地元鹿児島で母親と一緒に同居生活を送っている。数年前に東京から地元に帰ってきて一人暮らしをしてきたが、仕事を辞めたきっかけで先日母の住む実家に戻ってきた。一人では手に余るまあまあの広さの実家に、母が一人暮らしているのもどうかと思っていたし、そもそも一人暮らしをしていたマンションから実家まで車で30分ほどの位置だったため、生活圏がそう変わるわけでもないと自然な流れで同居に至った。

31歳独身女が実家に戻る・いい大人と高齢者の二人暮らし。
静かに暮らすご近所さんたちにとっては、なかなかにスキャンダラスなネタだったのではないだろうか。想像しまくったに違いない。私ならするよ、何かあったんじゃなかろうかと。
いい歳した女が特に結婚したそぶりもなく、仕事に行く様子もなく、あまりメイクをすることもなく、そこそこダサい部屋着で、何をするでもなくただ生活しているというのは、それはそれは「不審」といってもいいだろう。だからといって「ちょっと働き方考え直したくて」「忙しくやってたので働かずに一度すきなことしようと思って」「別に病気とかではないんです」そんなことを説明して回るわけにもいかない。言われたってだからそれがどうしたと言う話だろう。多分皆さんはそんなことが聞きたいんじゃない。スキャンダラスで胸がざわつくような事件を求めているのだろうが、残念ながら私に提供できるものは何もなかった。

ある朝、偶然出会ったご近所さん代表に意を決したように問われた。
「仕事はしてるの?」「結婚したの?」「もしかして妊娠中?」
よっしゃと思った。聞いてくれたら話が早い。
仕事はしていなくて、結婚もまだで、妊娠はもっとまだで、私は元気で、これはただの太りです。そんなことをハキハキと話した。ハキハキ話さないと、不審者感が増してしまう。できる限りご近所さんたちの不安を取り除きたい。いや、そんなことより私自身がヤバいやつだと思われたくない。
この期に及んで、ただの無職の三十路女は自分を高く見せたがった。ただの無職の三十路女でしかないのに。いや間違えた、ただの無職の独身の三十路女、だった。
ご近所さん代表は「縁がある時はくるわよ」「今は結婚しない人、多いから」等、気の毒そうな顔で私に励ましのような言葉を送ってくれた。ご近所さんの心の中で、私は「気の毒な人ランキング」上位に食い込んだようだ。

ご近所さんによって「近所の不審者」から「気の毒さん」になった私の脳内では、「結婚」という二文字が風船に書かれた文字のようにふくらんでいった。ご近所さんは、「仕事」については特に何もコメントしなかったが、こと「結婚」については丁寧に気の毒がってくれた。励ましの言葉をかけて、優しい口調で諭してくれた。仕事よりも結婚に重きを置くのが当然なのだろう。ご近所さんは悪い人ではない。不審者ではなかった私にかける言葉はとてもやさしかった。だけど私はそのやさしさに、生きづらさを感じた。

「結婚」という事実がない人生は生きづらい。それは私がこれまで生きてきて得た紛れもない事実だった。知人に「あなたはいいひとだから、いつかは結婚できるよ」と言われたことがある。私を思って言った全く悪意のない言葉だからこそ、痛みを伴った。結婚できない人はいい人ではないのだろうか。結婚歴のない人は、イコール信頼できない人なのだろうか。重い鉛のように、その言葉はずっと私の心に絡まりついた。そんなエピソードがここ数年、特に私が30歳になった頃からしんしんと蓄積されていった。結婚という二文字を前に私はやっぱり「気の毒さん」だった。

私は結婚しない主義ではない。しかし幼い頃に抱いていた「いつか結婚するのかな」という淡い夢想から31歳今に至るまで、私と結婚との間の距離は全く変わらない。はるかに遠いその距離を保ち続けたまま、大人になってしまった。振り返ると、結婚を意識しなければならなくなった時や、結婚が派手な音を立てて近づいてきた時というのは確かにあったけれど、その度に私は逃げ続けた。別に結婚しないポリシーなんてないのに。「私が私でいるために」といった、そういう素敵な信念があるわけでもないのに。私はさしたる理由なく結婚から距離をとった。ぼんやりと、なんの主義も持たない逃げは「気の毒さん」ですらないのではないか。それはただの「勇気のない人」、そして「器のない人」なのですよ、そう自分で自分を戒める。
もしかすると、私の生い立ちや育ってきた環境が影響しているのかもしれないと悩んだ時期もあったが、どんな環境を経た人であっても、結婚する人はする。どこまでも私自身の問題なのだと思うと、そうか逃げ続ける私が「欠陥のある人間」だからなのかと、これまたぼんやりと思い始めていた。

ある日、知人とリモートで恋愛についての話をしていた。ぼんやりと、とりとめもない「結婚したくない話」をしてしまった。ああ私は恥ずかしい話をしているなと思い「たぶん私は欠陥があるんだと思います」と逃げるように締めくくろうとした。なんにしてもどうしても普通ができない自分がいたたまれなかった。なんてちっぽけだと思った。強がってると思われただろうか、おかしな人だと思われただろうか。お酒を飲んでいたとはいえ、こんなことを聞かされた相手には申し訳なく思った。
しかし知人はこともなげに、「こんなにも多様性が認められ叫ばれつつある世の中で、そんな人がいてもいいのではないか」そう言った。その時の私は「はあ」とか「そうなんですかね」とか、気のない言葉を発した気がする。あまりにも衝撃的だったからだ。そうか、そんな人生があったっていいのか。シンプルにすとんと言葉が心に入ってきた。私の中の「気の毒さん」が浄化していくようだった。

私はこれから、恋をするかもしれないし、しないかもしれない。結婚をするかもしれないし、しないかもしれない。ポリシーもなくぼんやりと、生きてる時もあるだろうし、その中で人の目に傷ついたり辛い思いをしたり、穴があったら入りたい心持ちでいっぱいになることだってあるだろう。そうかといえば宙に浮いたぼんやりが、ふと形を持つ時がくるかもしれない。
でもそのどの道を選ぼうとも、私は「気の毒さん」ではない。「気の毒さん」の名札を付けていたのは誰でもない私自身だったから。

きんぴらごぼうは今日も美味しい。柔らかく煮たふにゃふにゃのごぼうがやっぱり私はだいすきだ。「幸せだなあ」ご飯が美味しければなんだって幸せな気持ちになる単純な私が、私はやっぱりすきなのだ。
それだけじゃない。気の置けない友人ととりとめのない話をする時、心を揺さぶるような素晴らしい音楽に触れる時、鳥肌のたつような文章に出会った時、家族となんてことないことで笑いあう時。

生きている瞬間、瞬間に。

私の幸せはどんなところにも転がっている。

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