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娘よ、あなたは誰よりも美しい

これは自分の娘のために覚えておきたい思いです。

女の子として生まれると嫌でもついてくるのが外見の評価、ルッキズム全盛期の令和。

娘はとてもかわいいし、成長したら絶対に美人になると思っているけれど、果たしてその思いをきちんと娘に伝えることができるのか、そんな思いで書いた文章です。

外見をディスられまくった幼少期

私は3800gと少し大きめに生まれてから、周りの子たちよりも大きく育ちました。

幼稚園の頃の写真は小さな子どもたちの中に一人だけ大きい人間がいる、ガリバーの冒険のような絵面のものばかりです。

そしてそれがいいことと捉えられているのであれば特に問題はないのですが、私の場合は大きいことをネガティブに指摘されました。

デブ、ブタ、デカい

両親、親戚、クラスの男の子から日々投げかけられるその言葉は、幼い私の自尊心を少しずつ削っていったように思います。

そして、大きいことは悪いこと、太っていることは悪いこと、だから私は悪い子どもだと思うようになりました。

悪い子どもから脱却するには

私は太っている悪い子どもなのでそのままで生きるには心許なく、いつしか心の拠り所を作るようになりました。

1番古い記憶だと5歳くらいの時です。

当時犬が大好きだった私は、持っていた犬の図鑑の犬種全種類と原産国を覚えていました。

これは外見はダメだけど、犬の知識だけは人一倍あるという、子供ながらの抵抗だったのだと思います。

そしてここから、外見はだめだから他の部分を磨いて周りに差をつけないといけない、という考え方が定着しました。

小学校のときは手芸を極め、中学校の時には勉強を、高校の時は声楽を、大学以降は英語を頑張りました。

周りの人がやっていないことをやることによって、悪い子どもからの脱却を図ったのです。

取り繕いながら生きる人生

上記の通り、私はがんばりやさんではあるのですが、それは何かを“やりたい”からという気持ちからではなく、“周りと違うことしてる私すごい”を原動力としていたため、どれも長くは続きませんでした。

ある程度のところまでいったら飽きてやめてしまうのです。

そしてまた新しい何かを見つけにいく。

そうして根本にある“悪い子ども”を抱えながら大人になり、その悪い子どもが表に出ないように、自分はすごい人間なんだぞ!とアピールしながら生きていくようになりました。

表面上はいわゆるリア充な20代だったと思います。

楽しかったのは事実だけど、何をしてもどこか満たされない、幸せなはずなのになぜか感じる空虚感。

周りに人が集まってくるような人間を演じていたし、演じすぎてそれが本当の自分だと思っていました。

Z世代の子たちと自分を重ねてみる

今の若い子たちって、昔の私のような生き方になってしまう要素ばかりの世界にいると思います。

Z世代の子を持つ親たちは、周りと違うことはダメだとする昭和の教育を受けた世代で、私の両親のように自分の子が平均から逸脱することを怖れているかもしれない。

でもその子供たちは、生まれた時からスマホがあることが普通な世の中で、自分よりかわいい子や才能ある子の存在をが常に身近にある。

もっとかわいくなるか、個性を出していかないと埋もれてしまう。

だから過剰なダイエットしてみたり、整形をしてみたり、注目を集められそうな行動に走ってみる。

それを見た親は自分の理解が追いつかないその行動を批判する。

昭和の親と、令和の子供、とても相性が悪いように感じます。

そりゃ軋轢も生まれるでしょう。

トー横に集まるのも、ホストにハマるのも、その軋轢や周りからのルッキズムの重圧であいしまった穴を埋めるための当然な世の流れだと思うのです。

自分が子供にしてあげられることは何か

私のような思いを娘にはしてもらいたくないです。

悩んで悩んで悩みまくって、それを解決できたのはいい経験ではあったけど、その時間を使って自分が心からやりたいと思うことをやってほしい。

そうならないために、外見の批判をしないことはもちろんのこと、娘の目線で物事を見ることが大切だなと思います。

1分だけ姿が見えないところに行くという行為も、私にとってはたった1分でも、赤ちゃんの娘は永遠にすら感じる不安を感じているかもしれません。

私がどれほどかわいいと思っても、学校でブスだと言われたら、私がなんと言おうが自分はブスなんだと思ってしまうかもしれない。

親の価値観では計り知れない独自の価値観を、我が娘は得ていくのでしょう。

親である私はそれを理解して、不必要な批判は避けなければと思うのです。

最後に

私の両親も愛情がなかったわけではないのです。

今もとても仲良しだし、感謝もしています。

外見いじりも他の子と同じような風貌にしてあげたいという親心の現れだったのでは、と今になれば分かります。

ただ、子供の私はその愛情の受け取り方が分からなかった。

親がどれだけ愛情を持って接してもそれが伝わらなければ意味がないのです。

それどころか愛情は時として凶器にもなりうる。

まずは相手目線に立ってから、どれだけその相手を大切に思っているかを伝えようと思うのです。

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